My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

2008年05月

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25日より約一週間、沖縄・粟国(あぐに)島へダイビングにいってきます。
 
何故、粟国かというと、昨年9月にモルディブのサハリクルーズに参加して、そこで一緒になった人が、“粟国のギンガメアジの群れは本当に凄いよ”と言ってビデオを見せてくれました。

ギンガメアジはそれほど珍しい魚ではなく、ごく普通に見ることが出来るのだが、しかし、これが今まで私が見たものとは比較にならないほど本当に凄かった。
 

撮影者がギンガメアジの群れの中に突っ込んでいくがギンガメアジは逃げず、360度ギンガメアジに囲まれ、撮影者は説明の言葉を忘れ、ただ”ワーオ“、”ワーオ“をと繰り返すのみだった。

 
今でも言葉をなくした撮影者の驚きの声が耳に残っており、それから、私も是非粟国に行ってギンガメアジに囲まれようと、虎視眈々と狙っていたが、やっと今回実現にこぎつけることが出来たのだ。

粟国島は、それまで私はぜんぜん知らなかったのだが、沖縄・那覇より北西へ約60km離れた、周囲12kmほどの小さな島です。 粟国と書き“あぐに”と呼びます。

名前のとおり、粟を育て、それを主生産物としていた島です。

ここで有名なものは、まず今回の訪問目的であるギンガメアジです。
そもそもギンガメアジの名の由来は、「体表が銀紙を張ったように輝く」ことから九州で言われていた名前が標準和名となったようです。

 
ただ、別の説としてギンガメアジが作る渦が銀河みたいで、目が大きいアジだから。
という説があり、私としては銀河説の方が好きなのですが
また、体側がきらきら光るから「メッキ」などとも呼ばれているが、これは主にアジ類の幼魚全体を指すようだ。

このギンガメアジが、春先から夏場にかけ、島の西端の「筆ん崎」ポイントに繁殖のため、何百万、何千万?というギンガメアジが集まります。
 
本当に銀河のようの群れをつくり、あるときは大きな玉となり、またあるときはトルネードと、千変万化に形を変化させ、特に、時々ローニンアジガ捕食のため群れをアタックすると、群れが瞬時に、銀色の体色を煌めかせ、ダイナミックに変化する光景は圧巻だ。

群れの中の婚姻色で黒くなったオスに誘われたメスが順次ペアーとなって、群れから離れていき、最終的には群れがなくなります。

ここのポイントは流れが速く、天気が良くてもエントリーできないこともおおく、また梅雨とか台風のことを考慮すると、なかなかタイミングが難しいポイントです。
 
今回はどうか、5泊4日間のダイビングを予定したが、ギンガメアジの大集団に遭遇することが出来るのだろうか?
現地の情報ではすでに大きな群れが出来ているとのこと。後は天候と流れしだいか。

次に有名なもの、映画「ナビィの恋」の舞台となった事ぐらい。
勿論、私は今回の粟国行きを計画しているときにはじめて知ったわけで、遅ればせながら、急遽「ナビィの恋」を急遽DVDを借りて見ました。
この映画は中江裕司監督が製作して、1999年12月に公開されたものだが、沖縄民謡の大御所を多数起用し、音楽と笑いを基調にしたミュージカル的作品です。

明るく澄み切った空と青い海を背景に年寄りと、若い二組のカップルの明るく、開放的な恋を、人情味たっぷりに綴った映画です。是非時間があれば見てください。
ということで、ダイビング以外は映画のロケ地となった場所とか、島内をぶらり回ることぐらいしかすることがなく、
粟国での5泊は、島の新鮮な魚料理ご馳走になり、日々のあわただしい世界から抜け出し、ゆっくりと、何もしない時間を過ごすことになりそうです。
これまた贅沢でいいかもしれません。ただ、本は数冊持っていくことにしますが・・・。

今回の沖縄行きは、もちろん粟国でのダイビングが主体ですが、そのほかに沖縄本島に3泊して南部の戦跡訪問と、いままでチャンスあればと狙っていて実現しなかった、沖縄美ら海水族館にも行ってきます。
南部の戦争遺跡はずいぶん前に行った事があります。
が、余り記憶に残っていません。

ダイビングを始めて、いろいろ南の島々へ行くことになり、どこでも先の大戦の悲惨な話や戦跡を目にすることになり、そしてさらに色々調べ知識も格段に増えました。
この段階で、再度訪問することで、今まで違った面なり、感情が得られるのではないかと思い、再び行くことに決めました。

沖縄美ら海水族館はいわずと知れたあの大水槽の中に大型種、小型種を混在させ、自然環境と同じ状態を作ったユニークな展示をしている水族館です。
ジンベイザメをはじめ、大型の回遊魚が群れをなして泳ぎ回る姿が見られるとのことで、ガラス面にへばりつきながら、じっくりと見てきます。
それから、会社の後輩で、早くリタイアして沖縄に移住した若き友人との旧交を温めてきます。

ということで、それでは来週一週間南国の沖縄を堪能してきます。
その成果は・・・後日の報告をお楽しみください。

写真は粟国役場HPより拝借

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「国際石油価格は、アメリカの代表的な原油であるウェスト・テキサス・インターミディエイト原油(WTI)の石油先物の価格で決まる。

WTIの先物は、ニューヨーク商品取引所(NYMEX)に上場しているが、同じ先物商品は、ロンドンにあるICE(Intercontinental Exchange
http://www.theice.com/ )という企業が運営するネット上の先物取引市場でも取り引きされている。
アメリカのヘッジファンドや投資銀行は最近、ニューヨークのNYMEXだけでなく、ロンドンのICEを通じて、さかんにWTI先物を買い、原油価格を高騰させている。」
と田中 宇氏は最近の国際ニュース解説(
http://tanakanews.com/)「石油高騰の謎」に記載している。
さらに、田中氏は続ける「NYMEXはアメリカの市場なので、そこでの先物取引は、米政府の商品先物取引委員会によって監視され、投機的な行為は取り締まられる。
だがロンドンのICEは、外国の民間企業による相対取引の市場なので、米政府の監視の枠外にある。
投機で原油をつり上げたい米投機筋(ヘッジファンドや投資銀行)は、ロンドンのICEで先物を売買し、米当局の目を盗んで意図的に原油価格をつり上げ、ぼろ儲けしており、規制が必要だ」と。

どうも曲者はこの監視外で取引される相対取引にあるようだ。
この相対取引(あいたいとりひき)とは非取引所取引とも呼ばれ、株式市場のように「特定の場所」での取引ではなく、売り手と買い手が交渉し、売買内容を決定する取引方法です。

米国が自分の所の原油(WTI)取引にこのロンドンのICEでの取引を2006年1月に認めるようになってから、原油の高騰が始まっている。
明らかにこの取引が原油価格の高騰を招いているものと考えられるが、米政府は何の規制もしていない。
すでにこの取引は原油(WTI)取引の30%を占めているという。

最近の原油価格の将来予測として、5月6日ゴールドマン・サックスは、供給の伸びが鈍いことから、原油価格は向こう2年間で1バレル=200ドルまで上昇する可能性がある、との見方を示した。
さらに、同社は16日、2008年下半期の原油価格について、供給がひっ迫するとして予想を大幅に引き上げた。
下半期の米原油価格CLc1が平均1バレル=141ドルになると予測。同社は以前、原油が100ドル台に乗せることをいち早く予想した。

このゴールドマン・サックスは前回私のブログにも書いたように、異常なまでの「業績連動報酬制度」を採っており、COE(最高経営責任者)の2006年のボーナス以外の報酬は7000万円、ボーナスで63億円も支払うような会社である。

このような高額の報酬が得られればなんでもありである。
原油価格がWTI先物の投機、特に相対取引のように証券会社と購入者間のみの取引で、意図的につり上げられ、一方では、原油は将来とも高騰するというような情報を流し、市場を煽る、自作自演の高騰なのだから、予測が当たるのは当然だ。
なぜ米政府はこのような取引の規制をしないのか?

原油高騰の原因の60%は投機によるものだと、前にも書いたが、投機を原油高騰の主因とみなす考え方には、反論もある。
最大の反論は「相場を投機でつり上げると、高騰の結果、実需が減り、大量の原油在庫が世界的に積み上がるはずだが、それは現実に起きていない。
だから高騰の主因は投機ではない「投機より、中国など新興工業国の石油消費増と、産油国の新油田開発速度の低下の結果だ。というものだ。
だが、5月13日にエネルギー機関(IEA)は、2008年の世界の原油需要の伸びが、従来予想を下回るとの見通しを示した。
5月の原油市場月報で、08年の世界の原油需要の伸びは、日量103万バレルになるとし、前回予想から同23万バレル下方修正した。
原油の需要が下方修正された大きな理由は、原油価格の高騰と米国景気の減速である。

5月12日米国産WTI原油の先物価格が一時、1バレル=126.40ドルまで上昇し、6営業日連続で史上最高値を更新している。
一方、米国景気は、雇用者数の減少や住宅価格の低下などを背景に低成長が続くと見込まれる

こうした状況であれば、世界の原油需要が低下しても不思議でない。
興味深いのは、世界の原油需要の伸びが下方修正される状況にもかかわらず、原油先物価格は史上最高値を更新し続けている点である。
中国やインドといった新興国の原油需要の伸びは堅調に推移しているとはいえ、世界の経済大国でありエネルギー消費国でもある米国の景気が減速しているのであれば、原油価格が低下に転じてよさそうなものでが。

やはり、原油価格は投機により高騰している。投機というバクチで儲けたいならいくら儲けてもいい、が、市民生活を巻き込むなといいたい。

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10日の日経新聞に「インフレ圧力 世界で 新興国は社会不安、株価も下落・・経済の安定揺らぐ」と言う記事が掲載されていた。

「世界でインフレ圧力が急速に高まっている。ニューヨークの原油先物相場は連日高値を更新、9日には一時一バレル126ドル台に乗せた。
エネルギーと食品の大幅な価格上昇は新興国などでは社会不安を招き、世界経済安定も揺さぶり始めた。

米国などの景気減速を受けて当局は金融緩和に動いたが、これが投機マネーを刺激して資源高となる悪循環を発生させている」とある。
資源国でないアジアやアフリカ各国は輸入を通じて物価上昇の直撃を受けている。

たとえば、ベトナムは四月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比21.4%も上昇した。これは小麦や豚肉が二倍以上上昇したためとの事。

景気減速に対応した利下げや資金供給によって投機マネーが商品市場に流れ込み、さらにインフレを加速させる悪循環の様相がつよまっている。
“当局が金融緩和”→“商品への投機過熱”→“実体経済が悪化”となる構図である。

日本においてもニューヨーク市場の原油先物(WTI)価格の上昇に伴い、東京市場のドバイ原油スポット価格は年初からの上昇幅は一バレルあたり23ドル前後。

これに日本の原油使用量二億四千万キロリットル(2007年、約15億バレル)を掛け、為替変化調整すると、年初からの原油価格上昇に伴う日本全体のコスト負担増は年間換算で約三兆円になるという。
 
原油だけでこの金額だ、ほかに石炭、鉄鉱石などの資源や小麦粉、玉蜀黍などの食料品も価格上昇し一年で二倍、三倍となったものも珍しくない。

何故こんなことが起きるのだろうか。
勿論新興国の発展による消費の高まりで資源の需要の増大も要因の一つであると思うが、主たるものは、米国が手に汗するもの作りを軽視し、お金がお金を生む金融商品のマネーゲームに奔走する社会構造を作り出し、またこれをもてはやす社会としてしまったことにあると思う。

機械工学科を卒業し、製造会社に就職して、爾来40年、ものづくりの現場で製品の開発、品質向上や数パーセントに満たない歩留まり向上のためのプラント設備の改善、改良設計をこつこつと積み重ねてきた私としては、
今日の日本の製造業のコスト、品質の技術競争力の高さにほんの一部でも加担できたと自負しているが、最近の技術者は、資源価格の驚愕上昇、短期間の大幅な為替変動など見ていると、もうあほらしくなり、こつこつとしたコストダウンなどやってられないのではないか。

このまま行くと全世界レベルでの経済システムの崩壊があるのかもしれない。

本山美彦氏著「金融権力・・グローバル経済とリスク・ビジネス(岩波新書)」を読んだ。
この本によると、世界経済を揺るがしたサブプライムローン問題は、「カネこそが商品」となった現在の投機的金融システムの危機と限界を明らかにしたとある。

この「投機」と
は丁とか半かといった非常に単純なギャンブルを、少しばかり理論的に高度化したものといえるが、ギャンブルであればそのゲームに参加する人たちのみが影響を受ける。
ギャンブルで勝者が大金持ちになろうが、敗者が没落してしまおうと、ギャンブルに参加してない人々には、何らの利益も受けないかわりに、少なくとも被害を受けることはなかった。

ところが、現在の金融ゲームは、ギャンブルに参加していない一般市民にも、たとえば石油投機による灯油価格の異常な高騰という形で被害を受けている。

ギャンブルをしていない一般市民をもギャンブルに巻き込み、そして、ギャンブルの最終的ツケを払わされている。
また、現代の金融システムの特徴は異常なまでの「業績連動報酬制度」をとっており、これが一攫千金のチャンスを狙ってあくどい金融まで手を染めることになる。
ゴールドマン・サックスのCOE(最高経営責任者)の2006年のボーナス以外の報酬は7000万円、ボーナスは63億円もあった。
つまり、報酬の殆どは、業績連動型のものである。
これでは、先のことは考えず、今、自分が儲かる利殖
に走るはずだ。
それで、サブプライムローンで不調となった企業を公的資金で救済しようという話にすごく抵抗を感じるのは当たり前だ。

題記の「お金儲けは悪いことですか!!」は某ファンドマネージャーが記者会見でのたまわった有名な言葉ですが、こう尋ねられた著者は「悪いことです。
人を威嚇する方法で得たあなたの巨額の儲けの影で、無数の人々が路頭に放り出された」と答えようと書いている。

現在のリスク売買を主体とする金融ゲームは、どのような理論的意匠を施されようとも、人間の生活を根本的に破壊するものであることを。

いま求められているのは、「自由」の美名の下で金融ゲームに走る金融権力を以下に制御するのか、という社会の知恵である。と結んでいる。

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