
今年の正月も西表島へダイビングに行きましたが、亜熱帯の西表も大寒波の影響で散々なダイビングとなってしまいました(詳しい経過は07年12月、08年1月のブログを参照ください)。
今回はリベンジの意味を兼ねて、ドライスーツの持参と十分な防寒対策することにし、宅急便で送った荷物の重量が30kg近く、3泊4日(ダイビングは中2日)の旅程には少しやりすぎたか?
石垣島から、高速船で40分の所に位置する西表島。
まだまだ手付かずの大自然と、イリオモテヤマネコをはじめとする固有の動植物が生き続けている。
海の中の世界で言うならば、
マクロ派には、豊かな栄養が流れ出す川の水と海水が混ざり合った海域、汽水域は固有の魚や、甲殻類なども多く、人気が高い、ニシキテグリとマンジュウイシモチなども見られる。
さらに、ワイド派には高い人気のオガンと呼ばれる仲の神島!
西表から南西へボートで一時間弱、黒潮のど真ん中にそそり立つ孤島。
オガンは、西表島沿岸と様相を一変します。
イソマグロ、バラクーダ、カスミアジなど大型回遊魚の大群や、スケールの違うダイナミックな地形!・・・あアたまらない。
しかし、・・冬場は風波が強く無理かな? 今回も近場のマクロ探しかな・・・。
西表島、八重山諸島最大の島。全島の80%は亜熱帯のジャングルに覆われているが、この島には、マラリヤのため、
移住、廃村を繰り返した悲惨な歴史があったことは前回(07年12月)のブログで紹介したが、
このマラリヤも大きく関与する西表島炭鉱の悲惨で残酷な史実があることを知った。
西表島の船浮(ふなうき)をご存じだろうか。
西部の白浜港から定期船で10分位の距離にある小さな集落だ。
道路は白浜集落までしかないため、船浮の人々は、船で往来しなければならない。
文字通り「陸の孤島」なのである。
隣接する内離(うちばなれ)島や外離(そとばなれ)島は、その豊かな原生林に覆われた美しい島影からは今や想像もつかないが、
大正から昭和初期にかけて、西表炭鉱の悲劇の歴史舞台となったところである。
西表島の西部で石炭が採れることは早くから知られていた。
幕末、開国を迫って浦賀沖に現れたアメリカ太平洋艦隊のペリー提督は、江戸幕府に対して武力を背景とした強引な交渉を行い、1年後の再談判を約し、江戸湾を去ったが、
帰路、アメリカ太平洋艦隊は琉球に向かい、そして、西表島の西半分が良質な石炭の宝庫であることを知ることになった。
産業革命以前の船は風を動力としたが、蒸気機関が発明されてから、船の動力源は石炭となった。航海の途中で燃料を使い果さないように、英米の船舶は海外に出かけるたびに現地の炭鉱を調査していたのだ。
やがて幕末の動乱を経て明治維新を迎え、政府の意を受けた三井物産、大蔵組など財閥系企業が西表炭鉱の経営に乗り出しまし、
当初200人の労働者を送り込んだが、マラリヤや劣悪な作業環境のため、半数もの人が死亡し、3年足らずで封鎖された。
さらに、日清戦争、日露戦争が勃発し、富国強兵が国策であった時代、この炭鉱が再び採掘を開始されたが、往時は2千人もの労働者が居たとの事。
その大部分は、全国各地から甘言にだまされて連れてこられた人々、朝鮮、台湾から強制連行されてきた人々は過酷で劣悪な労働条件、度重なる落盤事故、マラリアの蔓延、山師の暴力による支配に苦しめられた。
脱走してジャングルの中で屍をさらした者も数知れなかったといいます。
しかし、1945(昭和20)年3月に米軍の空爆によって西表島の炭鉱、集落は焼け野原となり、8月の終戦の頃と同じくしてどの炭鉱も閉山。
しばらく米軍によって採掘が行われるところもあったがすぐに廃れていった。
西表炭鉱の歴史は悲惨で、残酷なものであったが、だが、沖縄本島や石垣島にも炭鉱はないのに、何故、西表だけにあるのだろう?
調べてみると、西表の隣、台湾の台北の近くに基隆炭鉱があるが、なにか関係あるのだろうか。
今から、約1万年前、タイ、マレーシヤ、インドネシア、そして中国、台湾、日本と一つの大陸だったことをご存知だろうか。
スンダ大陸というのだが、地球最終氷期に、大量の海水が北極、南極で氷河となり、今の海面より100mも下がり、陸続きとなり、大きな大陸を構成していたのだ。
このスンダ大陸エリアには、与那国島やタイ・プーケット島北西シミラン諸島に海底遺跡が発見されており、
これが本当に人工物であったなら、世界四大文明に先駆け、人類最古の文明が東南アジアにあった、証明となるのが・・
話が飛んでしまったが、西表炭鉱は第三紀中新世に堆積した八重山層群と呼ばれる地層の間に石炭層があり、
特に八重山夾炭層と呼ばれ、どうも台湾とは関係なさそうです。
ダイビングは楽しいものです、色々な寄り道はありますが、広く、多事に渡り、世界に繋がりをもてます。
では明日から西表へ行ってきます。