初めての鵜来島。
私がCカードを取得したショップで2泊3日の鵜来島ダイビングツアーをやっていたので参加することにした。
参加を決めたのは、鵜来島は初めてということと、最近撮影機材を更新したのだが、
前回のモルディブでは激流の中、シャッターを押すのもやっとで、カメラの設定を変えることなどは殆ど出来なかった。
今回は、ゆったりまったりの中で、カメラを色々試してみて、
テクニック向上を目指してみようと、このツアーに参加することにした次第である。
さて、せっかく行くのだから初めての鵜来島とは一体どんなところなのか、調べてみよう。
宿毛(すくも)市のHPには、
「鵜来島は宿毛市の沖合い南西約23Kmの黒潮おどる太平洋に臨む島で、足摺宇和海国立公園に指定されている。
島の最高点は標高252mの竜頭山で、回りを断崖絶壁がとり囲む。
島は、伊予宇和島領に属していましたが、明治7年高知県に編入された。
島の名の由来は、古くは「浮島」とか「天蓋島」または「卯来島」と呼ばれ(今の名は海鵜が多く来ることから付けられた)又、
宇和島藩350石高禄の侍の悲恋の伝説があり、
島には今も小社が祀られ延元様と呼ばれている。
歴史とロマンを秘めた島です。」とある
一寸気になります。
「歴史とロマンを秘めた島」・・と言われても。
これだけでは何も分からない。
好奇心旺盛な私としては、さらに調べていくと
こんな話がこの島では伝わっているようです。
「かつて鵜来島がまだ宇和島藩領だった頃、とある藩士が家老の娘と駆け落ちしてこの島に逃げてきた。
藩の追っ手は島中を探したが、うまく逃げおおせた二人は松の木のもとで、
去ってゆく追っ手の船をそっと眺めながら胸をなで下ろしていた。
ところが、その男の持っていた刀が西日を受けて光ったのを、ちょうど対岸の谷で洗濯をしていた女が見つけて、
言わなくても良いものを大声で知らせてしまった。
追っ手が引き返すのを見て、観念した男は女を刺し殺し自分も切腹して果てたという。
その後、二人の祟りからか大声を出した女の家には災難が続いたので、二人が死んだ場所に祠を建て「延元さん」として御霊を祀ることになったとの事。
そしてその子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。」
昔の悲恋物語はどこにもあるようですが、新しく伝説となるような悲恋物語はあまり聞かない。
死を賭けた恋というのはもう昔だけの話なんでしょうか??
話が飛んでしまったが、地理的に見るとこの鵜来島は豊後水道の東側の入口部にある。
ということは、そうなんです。
豊後水道は太平洋戦争時瀬戸内海の工業地区、海軍基地への戦略的重要海域でした。
ですから防衛の要衝として沖の島(鵜来島より南にあり少し大きな島)、鵜来島区域の基地化が進められ、沖ノ島には 特殊潜航艇基地やレーダー基地などができ、
鵜来島は、巡洋艦一隻に匹敵する火力の砲台三基を備えた要塞の島となり、約二百人の海軍軍人が防衛に当たっていたという。
現在も鵜来島には当時の砲台跡や弾薬庫、兵舎跡などの遺構が残っているとのこと。
戦争と豊後水道という言葉ですぐ思い起こすのは、沖縄に来航した米軍に対し、攻撃をかけようとした、あの無謀で無責任な菊水作戦である。
中でも悲惨なのは海軍の水上特攻・戦艦大和出撃作戦です。
海軍はフィリピンでの水上特攻に失敗し、ほとんど機能を失った艦隊の生き残りの艦艇にすべてをかけて、沖縄にて一死報いようと最後の水上特攻を試みたのである。
沖縄への海路は、既に制空権は米国に奪われ、多数の敵潜水艦が潜む海を戦闘機の援護もなく出撃することは、
万に一つも成功しないことを知りつつ、海軍部は、
勝敗はすでに念頭には無く、人命より帝国海軍の栄光を残すためにのみに、最後の一戦を挑んだのだ。
残存の水上部隊主力である戦艦大和以下、巡洋艦矢矧および駆逐艦八隻を持って水上特攻部隊を編成し、沖縄米軍泊地に突入させた。
この無謀な無責任な作戦の犠牲になったのが、
戦艦大和の乗組員3333人(過半数は20代の若者で、20才以下の少年兵も100名近くいた)であった。
1945年4月6日夕刻、瀬戸内海徳山港出港した一行は、
夜半、豊後水道の狭い水路にさしかかる。
灯火管制のもと、航路標識ひとつないまったくの暗夜の海上を行、
多分暗闇の中で鵜来島を目で見ることは出来なかっただろうが、生きて帰れないことを覚悟した乗組員は静かに別れを告げたことであろう。
翌7日14時23分、2時間にわたる米軍戦闘機の執拗な攻撃で九州坊の岬沖に大和は撃沈した。
九死に一生を得たのは僅か269名。
作戦全体での犠牲者は4037名。
(最近読んだ、メカ好きには面白い「戦艦大和 100の謎」 太平洋戦争研究会 編著 世界文化社
を参照)
ダイビングから話がずれたが、南の島々に行くと思い起こさせられるのはいつも、先の大戦の悲惨さだ。
それでは、鵜来島へ行ってきます。