My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

2009年04月

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初めての鵜来島。

私がCカードを取得したショップで2泊3日の鵜来島ダイビングツアーをやっていたので参加することにした。

参加を決めたのは、鵜来島は初めてということと、最近撮影機材を更新したのだが、
前回のモルディブでは激流の中、シャッターを押すのもやっとで、カメラの設定を変えることなどは殆ど出来なかった。

今回は、ゆったりまったりの中で、カメラを色々試してみて、
テクニック向上を目指してみようと、このツアーに参加することにした次第である。

さて、せっかく行くのだから初めての鵜来島とは一体どんなところなのか、調べてみよう。

宿毛(すくも)市のHPには、
「鵜来島は宿毛市の沖合い南西約23Kmの黒潮おどる太平洋に臨む島で、足摺宇和海国立公園に指定されている。
島の最高点は標高252mの竜頭山で、回りを断崖絶壁がとり囲む。
島は、伊予宇和島領に属していましたが、明治7年高知県に編入された。
島の名の由来は、古くは「浮島」とか「天蓋島」または「卯来島」と呼ばれ(今の名は海鵜が多く来ることから付けられた)又、
宇和島藩350石高禄の侍の悲恋の伝説があり、
島には今も小社が祀られ延元様と呼ばれている。
歴史とロマンを秘めた島です。」とある

一寸気になります。
「歴史とロマンを秘めた島」・・と言われても。
これだけでは何も分からない。

好奇心旺盛な私としては、さらに調べていくと
こんな話がこの島では伝わっているようです。

「かつて鵜来島がまだ宇和島藩領だった頃、とある藩士が家老の娘と駆け落ちしてこの島に逃げてきた。

藩の追っ手は島中を探したが、うまく逃げおおせた二人は松の木のもとで、
去ってゆく追っ手の船をそっと眺めながら胸をなで下ろしていた。
ところが、その男の持っていた刀が西日を受けて光ったのを、ちょうど対岸の谷で洗濯をしていた女が見つけて、
言わなくても良いものを大声で知らせてしまった。
追っ手が引き返すのを見て、観念した男は女を刺し殺し自分も切腹して果てたという。

その後、二人の祟りからか大声を出した女の家には災難が続いたので、二人が死んだ場所に祠を建て「延元さん」として御霊を祀ることになったとの事。
そしてその子孫は現在まで毎年の祭りを欠かさないという。」

昔の悲恋物語はどこにもあるようですが、新しく伝説となるような悲恋物語はあまり聞かない。
死を賭けた恋というのはもう昔だけの話なんでしょうか??

話が飛んでしまったが、地理的に見るとこの鵜来島は豊後水道の東側の入口部にある。

ということは、そうなんです。

豊後水道は太平洋戦争時瀬戸内海の工業地区、海軍基地への戦略的重要海域でした。
ですから防衛の要衝として沖の島(鵜来島より南にあり少し大きな島)、鵜来島区域の基地化が進められ、沖ノ島には 特殊潜航艇基地やレーダー基地などができ、
鵜来島は、巡洋艦一隻に匹敵する火力の砲台三基を備えた要塞の島となり、約二百人の海軍軍人が防衛に当たっていたという。
現在も鵜来島には当時の砲台跡や弾薬庫、兵舎跡などの遺構が残っているとのこと。

戦争と豊後水道という言葉ですぐ思い起こすのは、沖縄に来航した米軍に対し、攻撃をかけようとした、あの無謀で無責任な菊水作戦である。
中でも悲惨なのは海軍の水上特攻・戦艦大和出撃作戦です。

海軍はフィリピンでの水上特攻に失敗し、ほとんど機能を失った艦隊の生き残りの艦艇にすべてをかけて、沖縄にて一死報いようと最後の水上特攻を試みたのである。

沖縄への海路は、既に制空権は米国に奪われ、多数の敵潜水艦が潜む海を戦闘機の援護もなく出撃することは、
万に一つも成功しないことを知りつつ、海軍部は、
勝敗はすでに念頭には無く、人命より帝国海軍の栄光を残すためにのみに、最後の一戦を挑んだのだ。

残存の水上部隊主力である戦艦大和以下、巡洋艦矢矧および駆逐艦八隻を持って水上特攻部隊を編成し、沖縄米軍泊地に突入させた。

この無謀な無責任な作戦の犠牲になったのが、
戦艦大和の乗組員3333人(過半数は20代の若者で、20才以下の少年兵も100名近くいた)であった。

1945年4月6日夕刻、瀬戸内海徳山港出港した一行は、
夜半、豊後水道の狭い水路にさしかかる。

灯火管制のもと、航路標識ひとつないまったくの暗夜の海上を行、
多分暗闇の中で鵜来島を目で見ることは出来なかっただろうが、生きて帰れないことを覚悟した乗組員は静かに別れを告げたことであろう。

翌7日14時23分、2時間にわたる米軍戦闘機の執拗な攻撃で九州坊の岬沖に大和は撃沈した。

九死に一生を得たのは僅か269名。
作戦全体での犠牲者は4037名。

(最近読んだ、メカ好きには面白い「戦艦大和 100の謎」 太平洋戦争研究会 編著 世界文化社
を参照)

ダイビングから話がずれたが、南の島々に行くと思い起こさせられるのはいつも、先の大戦の悲惨さだ。

それでは、鵜来島へ行ってきます。

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ここ2年ぐらい経済関係の図書の購入が多くなってきている。
毎週1から2冊の経済週間雑誌に、毎月2,3冊程度の単行本を購入し、
読んでいるが、どうもしっくりこないことが多い(要はよく分からないのだ)。

私の専門は機械工学で、大学で機械工学を学び、就職して機械設計、設備エンジニアリング関係の業務に携わり、すでに40年以上経っている。
この間、機械工学関係の図書を自分で購入したのは、
この2年ぐらいで購入した経済関係の図書数よりたぶん少ないと思う。

それでも、まがりなりにも機械工学関係業務を生業として生活してきたが、
経済については図書をいくら読んでも理解できず、記憶にも残らない。

勿論、株での資産アップ(実態は本を読んでいても大きく損失を出している)に寄与しているわけでもない。

思うに、どうも具体的な”物“に対する現象を追求する工学系の思考パターンが染み着き、
抽象的なものを扱っている経済の思考を理解できなくなってしまっているのであろう。

とはいえ、今回、有名なノーベル賞を受賞した経済学者であるクルーグマン教授が、一般の人向けに、
難解な問題を分かりやすく説明することこそ真の経済学者の行うべきこという矜持により、

最近の金融危機を、意識的に平易な説明に努めて執筆したのが本著である、と聞き早速読ました。

本書は著者のノーベル賞受賞後初の書籍。
10年前に現在の状況を予測した「世界大不況への警告」に、その後の出来事と今後の展望を増補し改訂したものである。

本書の訳者あとがきの中に、金融危機の引き金を引いたのは、2008年9月15日の大手投資銀行、リーマン・ブラザーズの倒産といるのだろうが、
アメリカの金融当局ですら、リーマンが倒産してもその衝撃はそれほど大きくないと高を食っていた。

だが、その後の世界経済は坂道を転がり落ちるように不況に突入していった。

何故だろう。

劣悪なサブプライムローンのせいだと報じられてきたが、それが、何々ローンであろうと、たかがいくつもある住宅ローンの一つではないか。

世界的不動産バブルの崩壊だからという説明も聞く。

しかし、日本における土地・株バブルの崩壊は世界経済を大不況に陥らせることはなかった。

何故、今回のリーマン・ショックは違っているのか。
何故、リーマン・ショックから数ヶ月後に、東京の公園に「派遣村」が建つほど景気は悪化してしまったのか。

という疑問は誰でもが一度は胸中をよぎったであろう。

そしてそのような疑問を晴らし、この大不況の正体を明らかにするのが本書の目的だと書いている。

書の前半は1995年の中南米危機、日本のバブル崩壊後の長期不況、1997年のアジア経済危機を分析している。

経済学は、1920年代〜30年代の大不況から多くのことを学んだにもかかわらず、
実際の政治は誤った政策から、不況を防ぐことも乗り越えることもできなかったとしている。

後半は今回の世界同時不況について、ヘッジファンドの膨張、アメリカの緩めの金融政策、
規制の及ばない金融業態(影の銀行)等について分析をしている。

特に教授は規制緩和された金融機関が新たなるリスクをとったために危機が起こったのでなく、
当初から規制されたことがない金融機関がとったリスクによって引き起こされたものだとし、

政治家も金融当局も、大恐慌を発生させたような金融危機が再び生まれつつあることに気づくべきだった。

そして、それに対応するために、新しい機関に対して金融セーフネットと規制を施すべきだった。
と断言している。

そして最後に、「何をすべきか・・・非常事態への対応」として
教授は 世界が今必要としているのは、景気対策である。

まずは明白な当面の危険な状態をどうにかしなければならない。
そのためには世界の政策決定者は二つのことをする必要がある。

それは信用フローを回復すること。
そして消費を喚起することである。
と結んでいる。

教授の指摘どおりだ。
先日閉幕された二十カ国・地域(G20)首脳会議では10年末までに、
総額5兆ドルの財政出動に踏み切ることに合意した。
世界の為政者はやっとやるべきことを決めたのだ。
しかし重要なのはやはり金融の安定だ。
安定の努力が信任を得られないと財政出動の効果も上がらない。

やっと動き出したということか。
ところで、話は変わるがノーベル経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞)は、
アルフレッド・ノーベル自身が設置、遺贈したものではなく正確にはノーベル賞ではない。

受賞者のほとんどを欧米出身者が占め、その中でも特にアメリカとイギリスの出身者が多い。
2008年までの受賞者数62名のうち、欧米諸国の国籍を持たない受賞者は、1998年のアマルティア・セン(インド)が最初であり、唯一の受賞者となっている。

これって、前回話題にした「ワシントン・コンセンサス」の結果なのかな・・。

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“市場に任せれば万事片付く。そんな「ワシントン・コンセンサス」は終わった”

とブラウン英首相が4月2日ロンドンで開催されたG20金融サミット会議後に総括した。

日米欧の先進国と、中国、インドなどの20か国・地域(G20)の首脳が参加し、ロンドンで開かれた第2回金融サミットが、首脳宣言を採択して閉幕した。

宣言は、「来年末までの世界経済の回復」を目標に掲げ、世界全体で5兆ドルの景気刺激策を実施することを打ち出した。
この刺激策により、世界の経済成長率が4%押し上げられ、数百万人の雇用が創出されるとしている。

だが、協調を最優先し、不協和音を封印した跡がみえる。

まず、追加的な財政出動を巡る米欧の対立や金融機関に対する規制をどう強化するかという問題では、ヘッジファンドの登録制導入などで米国が歩み寄ったのは前進だが、
具体策では、強力な規制を求める欧州と米国の溝は依然大きい。

宣言が、保護貿易主義の阻止を明記したのは当然だ。

 しかし、前回会合でなされた保護主義反対の合意は、その後、各国で相次いだ自国産業を保護する動きで反古(ほご)にされた。今度こそ、順守しなければならない。

(2009年4月3日 読売新聞抜粋)

大恐慌後に開催されたロンドン会議(1933年6月通貨体制をめぐる米欧の対立から決裂、やがて第二次大戦に至る保護主義の時代の幕開けにつながった)のように流石に、
未曾有の世界経済危機を前に、決裂することなく、危機克服に各国協調して立ち向かう姿勢を確認したようだが、
だが、各国間の溝が埋まったとは思えない。

特に金融機関への規制強化については、仏、独がこのチャンスでなければ将来ともなんら決めることが出来ないと固執したが、結果は具体的に何も決定されなかった。

こんな状況で、本当に「ワシントン・コンセンサス」は終わったと言い切れるのであろうか。

ワシントン・コンセンサス とは

1989年にベルリンの壁が崩壊すると,ワシントンにあるシンクタンク国際経済研究所(IIE)は,アメリカ主導の国際経済秩序を構築する柱として,財政規律,税率の引き下げと課税対象の拡大,金利の自由化、貿易の自由化,直接投資の自由化,民営化,規制緩和など10項目をまとめた。

こうした方針がアメリカ財務省,世界銀行,IMF,その他,ワシントンの政策関係者たちの共通認識(ワシントン・コンセンサス)になったといわれる。

ワシントン・コンセンサスは,しばしはアメリカン・スタンダードを他国に押し付ける、アメリカの「陰謀」として非難される。

強欲で、すき放題を重ねてきた米、英の金融業界の根底にこのワシントン・コンセンサスがある。

米国は、諸外国に対し、民営化という名のビジネスを強制するための理論武装(市場における自由な競争とそれを支えるアメリカ型経済制度が他国の制度よりも優れているという理解)のために使われたのがこの「ワシントン・コンセンサス」である。

1997年から98年までに“発生”したアジア通貨経済危機では
IMF(国際通貨基金)が特定の“処方箋”を提示し、
各国は唯々諾々とこれを受け入れなければならなかったという政治的現実である。

そこで飲まされた“処方箋”によってアジア各国は、グローバル・スタンダードという名のアメリカン・スタンダードへと無理やり合わせられたのである。

これが結果として、米国をベースとする多国籍企業、あるいはファンドや投資銀行といった“越境する投資主体”たちがいとも簡単にビジネスをしやすくなる環境を整えるための巧妙な仕掛けであった。

このような背景の中で、米、英の金融業界は自己の強欲を満たすべく、あらゆる手段で金儲けに走った。

この行き着く先は、いわずと知れた、今回の世界を巻き込んだ金融危機だ。

今回の金融サミットで欧州各地ではミット参加国の首脳に「市民の利益を最優先すべきだ」と抗議デモが繰り広げられた。

この背景には
英国企業史最悪の赤字を出し、国営化されたロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)の前最高経営責任者、グッドウィン氏(50)の話がある。

氏の在任中の年間報酬は約400万ポンド(約5億4700万円)に達し、辞任後、年間70万ポンド(約1億円)の年金(在籍は10年程度で)を生涯にわたって受け取るという。

会社を最悪の赤字にし、破綻させ、国民の税金で救助させ、自分だけが高額の報酬、年金をもらうという。デモが起きるのも無理ないと思う。

米国のAIGなどと同等の構図だ。

物つくりをやめた米国は金融業で全生産4割を稼ぐという。金融で成り立っており、規制が出来ないのだ。

会社経営を近視眼的にしか考えず、短期間でやりたい放題やり、その間高額報酬をふんだくり、先は悪くなれば税金で援助して貰い、ハイ!サヨナラ。

規制なくして、第二の金融危機が起きるのは必然だ。

いつから米国はこんなになってしまったのだろうか。

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