My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

2009年05月

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毎年この季節になると、苛立ちと、憤りを思い起こさせる書類が配達されてくる。

何かといえば、自動車納税通知書である。

私の通知書には小さな字で「当該車の税額はグリー化税制により約10%高くなっています」と印刷されています。

これって、ご存じない方もあるかもしれませんが、
平成14年度の自動車税から、環境に配慮した度合いにより、自動車税の負担が軽減されたり、また重課されたりと、異なる税額となる特例措置のグリーン化税制が開始されました。

この制度の飴として、環境性能に優れたクルマは減税され、鞭として、ガソリン車では新車登録から13年を超える低年式車は自動車税が約10%増しとしたものだ。

鞭打ちの理由は古いクルマは環境負荷が大きいからだという。

単視眼的な役人達が税収上のバランスだけから、考え付く、矛盾だらけで、国民の心情を逆なでするような、愚劣な悪制度である。

私の場合、ホンダ・ビガー の平成5年度登録車であるから、既に今年を含めると3回もこの重課分をとられている。

この車、「5気筒で6気筒の静けさと4気筒のコンパクトさを併せ持つ」をコンセプトに(ホンダは時々面白いことを考える)、又、3ナンバーに対応すべく車体を大きくするため、ドアーの厚みなどを厚くしている(車内はそんなに広くない)。
そのため、中々重厚感があり、家内も気に入って乗っていた、思いでのある愛車である。

事故も、故障もなく、今日まで約6万9千を15年間で走行している。
今の燃費は街中で8km/L、高速を使ったドライブでは10km/L程度で、年間5000kmも走らない、
この車が罰則を受けるほど、どのくらい環境に負荷をかけていると云うのだろうか。

何しろこの悪制度はおかしいとこだらけだ。

まず、なぜ13年以上なのか、どのくらい環境に大きな負荷をかけているからという説明がない。

もともと、古い車の持ち主は車を大切に使い、十分な検査、点検をし、年間の走行距離も少ない(だから13年以上でも現役でいられる)人が多いのではないかと思う。

環境に大きな負荷をかけているというなら、なぜ負荷の総量で(燃費X走行距離)で規制しないのか。

新車で、私の車より多少燃費のいい車を購入し、年間2,3万kmも走行する人もかなりいると思うが、この人達のほうが各段に環境に大きな負荷をかけていると思うのだが、

新車購入した人には減税、免税というご褒美。
私には10%増しの重課という鞭打ちの刑。

おかしいと思いませんか。

又、この悪制度は登録年度から13年という基準を使っているが、ここにも大きな矛盾がある。

例えば(あまりないと思うが)、ガソリンをがぶ飲みするような13年以上経った米車を輸入した場合、日本では初登録となり、どんなに環境に負荷をかけようが、鞭打ちの対象にならないのだ。

本当に環境への負荷を少なくしようと思う信念と熱情が役人にあるならば、こんなざるで、根拠のない、いい加減な制度を作るはずがないと思う。

最近のニュースで、
「レクサスのLS600hは、JC08モード走行燃費で11.0km/L(10・15モード走行燃費:12.2km/L、)を実現し、省エネ法に基づき策定された新たな燃費目標基準である“2015年度燃費基準”をいち早く達成」とあった。

この車を買った人は(私には買う気もないが)自動車重量税、取得税をあわせ、74万円ものご褒美がもらえる。

10・15モード走行燃費で12.2km/Lといえば、実態は私の車と同じようなものだと思うのだが。

この燃費基準というのも曲者で、昔の燃費から何%改善したかが評価され、絶対値ではない。
重たい車ほど有利で、レクサスなども、基準を達成できるのだ。

要は、役人達は鞭打ちの刑がいやなら、古い車を捨てて、新しい車を購入しなさい。ということなのだ。

安易に新しいものに交換せよという思想にもカチンと来る。

日本人はモノをじっくり、長く、愛着をもって大切に使おうとする心情がある。

「もったいない」とうい気持ちだ。

ウィキペディアによると、もったいない(勿体無い)とは、仏教用語の「物体(もったい)」を否定する語で、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している。

日本の民族信仰である古神道を源流とする神道においては、「散る桜の花びら」や、「吐息の一つ一つ」にまで、命が宿るとされ、森羅万象に対して、慈しみや感謝の念をもって接してきた。

その心根が「もったいない」という価値観の根底に流れている。

この「もったいない」という言葉の意義を、民間を中心に全世界に広げようとする動きが強まってきている中で、
この悪法はこの動きを逆なでするようなものだ。

最近のベンツの広告のキャッチコピーに(車を)「消耗品と思うのか。 人生をともにする道具、と思うのか。」

とあるが、
こんな気持ち、この悪法を作った役人達はには理解できはずもない。

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先週の木曜(7日)日本株は急騰して400円高。

この3日間で日経平均は10%以上も上昇し、金曜日は、
米国のNYダウが100ドル以上の下落だったので、多くの人は
『今日の株は下がる』と考えても不思議はなかったが、
結果は47円高と続伸した。

連日の年初来高値を更新し、昨年11月5日以来の水準を回復した。

勿論、NYダウも米金融システム不安の後退に加え、
景気・企業業績の底入れ期待が出て、大きく改善している。

長い冬が明けるのか?
このまま快進撃が続くようであれば,金融不安と景気後退に楔が打たれることになりそうだが。

先週末の株高は勿論米国のストレステスト結果発表にある。

「米財務省とFRBは7日、国内の主要19金融機関に対して一段の景気悪化に耐えられる資本があるかどうかを検査した資産査定(ストレステスト)の結果を公表した。

バンク・オブ・アメリカ(バンカメ)やシティグループなど10社に計746億ドル(約7兆4000億円)の資本増強を要請した。

一方でJPモルガン・チェース、ゴールドマン・サックスなど9社の資本は十分と判定された。 (産経新聞)

このストレステストとは、一般に発生確率が低いと考えられるリスクシナリオをいくつか用意すると共に、ヒストリカルデータから異常な環境下のものを抽出し、
その発生確率や変動パターンを当該シナリオに当てはめて、現在のポジションが抱える潜在的なリスク量を計測し、不測の事態に備えるものだが、

公表された、ストレステストの結果は米国の銀行は健全であり、新たな公的資金の注入の必要性はないというものでした。

これまで世界中で600兆円の不良債権とか、米国で200兆円の不良債権があるというニュースが流れ、金融恐慌とも言われ、
今年も景気は、更に悪化し、サブプライムローン以外の不良債権は今後も増える見通しと報告される中、どうして『米国の銀行は健全』なのか?

もし200兆円の公的資金の提供が必要だという結論を、公表したとすれば、この資金を手当てする算段が米国政府になければ、
『金融恐慌が再来して、世界経済はパニックに陥り、世界の株式市場は暴落する』ことにる。

従って、何があっても『ストレステストの結果』は世界経済を安定させ、銀行に対する信頼を回復させ、リーマンの二の舞は踏めないという事情がある。

そこで、米国政府は、

1.2年後の景気悪化の前提条件を緩くして、銀行の損失を軽くす。
2.ストレステストを行う前に、時価会計基準を緩和した。
3.議決権がない普通株(特殊な優先株)というものを作り、
 公的資金で買った優先株を普通株に転換しても、政府が管理
 できないというルールを作った。

そして、もし、米国政府が『米国の銀行は何ら問題ない』という満点の結果を発表したとすれば、だれも信用せず、逆に不信感から株式市場は暴落した可能性がある。

そこで米政府は、7兆円以上となる資本増強が必要で今後、銀行全体で6000億ドルの損失が見込まれるという、
信憑性が保てる最小の『悪い数値』を発表して、

米国の銀行は『厳しいけれども、これまで投入した公的資金を普通株に転換すれば、新たな公的資金の投入がなくても大丈夫』という政治判断を報告したのだという。

米国が実態に則した真実を発表するのと、政治的判断をするのでは、
世界経済にとってどちらが良いかという選択で、

今の世界経済は、政府の失態を逆手にとって、大もうけを企む投資家が沢山いるなかで、真実を発表すれば『彼らが巨額の儲け』を獲得して、善良な市民が苦しむという結果になり、
メリットはなく、今回の米国政府の、政治的判断が正しかったのだという論評を目にした。

それでは、これからの世界経済はどうなるのか、さらに識者の意見を調べてみると

「今回の危機到来を予言したニューヨーク大学スターン経営大学院のヌリエル・ルービニ教授は今のムードを「先走りすぎだ」と警告、
「米経済は年末までマイナス成長が続き、株価が下落するとともに銀行の国有化が必要になる」と断言する。

 政府主導のマネー大量供給、財政支出拡大、銀行国有化、金融規制強化など、市場経済の欠陥を超えて資本主義の終焉も危惧される。
世界の破局は避けられるのか、これからが真の正念場だ。」

あまり断言されても困るのだが、やはりここ最近の株高は泡沫の夢か・・・

それにしても、同じく政府が報告する内容でも、これは許せない。

日本の厚生労働省は厚生年金給付について、政府の約束「現役世代の手取り年収の50%」を守るため、
国民年金の保険料納付は率現状62.3%のものを、出来もしない80%に向上したとして辻褄あわせの計算を報告している。

目線が国民でなく、自己保全しか考えていない。

日本の官僚たちは、隠すのでなく、どのように改善していくか計画しないのであろうか、それを指示するのが大臣なのに・・・既に官僚たちに飲み込まれている。
 
情けないことだ。

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連休中読んだ本の一冊で、この本は日経新聞の書評で、“今年初めての5星”との評価を受けている。

5星の最高評価となる本とはどんなものか気になり、購入していたものを、連休中に引きずり出して読みました。

この本の読書感は、一言で、本の帯にもあるが、まさに、“感動と静謐に満ちた傑作”だ。

40余年にわたり、誰よりも藩と藩民を思い正義を貫いてきた主人公:間が、
謀反罪で拘束され、島流しの処分を受け、玄界島へ流されるために秋月を出立するとき、

付の人が
「間殿が流されるというのに、秋月の町は寂として人声もせぬ。さびしい限りでござるな」
という言葉に
間は
「この静謐こそ、われらが多年、力を尽くして作り上げたもの。されば、それがしにとっては誇りでござる」
と言って、顔をあげ、凛として歩き出した。
なんと、清々しい。

何度も自分の信念から「わたしは逃げなかっただろうか」と、
自らを問い詰め、私欲を捨てて、信念に向かって、突き進んだ人生は本当に清く、勇ましく感動的だ。

もう少し詳しくこの本の内容を紹介すると

九州の<小京都>とも呼ばれる福岡県の山あいの町、秋月(あきづき)が舞台の時代小説だ。
秋月藩は江戸時代初期に福岡藩から分かれた城も持たない小藩。

時代は江戸末期。何としても本藩・福岡藩が、取り戻したく乗っ取りに来るのを藩内で出世しながら、40余年にわたって抵抗する間小四郎(後の余楽斉)と、志を同じくする7人の藩士たちの物語。

荻生徂徠の古文辞学派の亀井南冥に師事する福岡藩の儒者原古処、伊賀忍者の末裔で柔術の使い手、海賀藤蔵、男装もしたという女性歌人、原采蘋(さいひん)、エドワード・ジェンナーより、6年早い時期に予防接種である人痘種痘法をわが国で初めて成功させた、緒方春朔など実在とされる多彩な人物たちが登場する。

冒頭で、藩政に大きな影響力をもっていた間が謀反罪により身柄を拘束される。

誰よりも藩と藩民を思い、正義を貫いてきた間に何があったのか。

なぜ驚いた様子もなく島流しの処分を受け入れたのか。

時代を数十年前に戻し、間の人生をたどりながら、この謎を解いていく。

本藩・福岡藩との長年の確執、福岡藩に代わって、長崎警備に加え、野鳥川の石橋建造、中宮御所造立、仙洞御所修復と次々に難題を突き付けられ、
未曽有の財政難に追いつめられる秋月藩。

「その窮状ぶりは現代日本の地方自治体や中小企業の苦境と重なってくる。」 (毎日新聞評)

「勝てないとわかっていても、戦わねばならない時があります。
秋月藩の男たちも負けを覚悟して戦い、最後は敗れます。
しかし、負けて終わりなのではなく、その先に何かがあった。
負けてもなお心が折れない男たちを書くには、架空の小説より、史実に基づくほうがリアリティーが出ると考えました」(葉室氏談)

「正しいことを行えば、藩も人々の暮らしも良くなると思っていた。しかし、あれも、なまけ心の一つだ。
皆が生きるために励むという大道を歩まねば、悪人をのぞいたからと言って民百姓が豊かになるというものではない。正しいことさえ行えばというのは、努めることからの逃げ口上になるときがある」(間小四郎)

かって、間が藩を救う正義のためと失脚させた家老宮崎織部、
実は彼も藩の苦境を救わんばかりに一人、憎まれ役を演じていたのだが、
間は後で誤りと知り、蟄居中の家老宮崎を訪ね、
家老の本音と志を知り、同じく、間も藩を救うための捨て石となる決意で己の運命を受け入れる。

そして、時は過ぎ、恩赦で18年の島流しから許された宮崎に再び会ったときに、

宮崎は間に向かって言う。

人は美しい景色をみて落ち着くのは
「山は山であることに迷わぬ。雲は雲であることを疑わぬ。ひとだけがおのれであることを迷い疑う。それゆえ、風景を見ると心が落ち着くのだ」

そして、「間小四郎、おのれがおのれであることにためらうな。悪人と呼ばれたら、悪人であることを楽しめ。それが、お前の役目なのだ」

憎まれても藩政を遂行していこうとしている間への励ましの言葉だ。
本当にすがすがしく、かっこいい!

時代劇の形をとっているが、組織の中で埋没していく現代人へのメッセージ。

癒しを求めてばかりいないで、自らの信念に向かって、逃げるな、戦えということか。

国を担うはずの政治家も経済人も、人々が、こぞって自分たちの利益のみ追求し、隠したり、逃げたり、潔くない、どころかおぞましい姿ばっかりここ何年も見せつけられているから、こういう本当に男らしい話に感動する。

でもひょっとすると、どこかの首相、マンガばかり読んで、若い記者には傲慢で、国民を馬鹿にし、変に自信過剰で、あの下品な自慢げな高笑いは、
自ら、国民から嫌われながら、本当は、自己を捨て、真に国民のことだけを考えている人の表の顔なのかも。 まさか!!


是非一読願いたい一冊です。

「秋月記」 葉室麟著 角川書店刊 1700円

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