10月17日から20日:3泊4日の鹿児島県・トカラ列島でのダイビングから無事帰宅しました。
3泊といっても一泊はフェリーでの船中泊とトカラ列島・口之島の民宿泊と鹿児島市内ビジネスホテル泊で連泊がなく大変慌ただしいものだ。
ダイビングもフェリーが早朝5時ごろ到着後、民宿で朝食、機材を整えて9時には一本目を潜り始め、この日3本潜り、翌日は6時に起き朝一本潜り、その後機材を洗い、昼食そして荷造りして13時過ぎのフェリーに乗るというハードスケジュールだった。


フェリーから見た口之島 断崖に囲まれているが緑豊かな美しい島だ
左:遠くに中の島のトカラ富士 右:口之島北端のフリイ岳
今回のダイビングは私の600本記念ダイビングだった。
2005年7月にCカードを取得して以来、9年と3か月、年間平均65本程度潜ったことになる。
前半の5年間は仕事しながらのダイビングで年間平均62本程度、仕事を辞めた後半4年3か月は年間平均67本のピッチで潜っている。
これを見ると、仕事をやめた時と、仕事をしていた時では年間平均は僅かに増えている。 が、仕事をしていた期間は意外と色々と工面、工夫しながら潜っていたのだと改めて思い知った。
100本を超えるころになると一人でも、又どこでも行けるようになって益々ダイビングが面白なってかなりのピッチで潜りに行っていたのだ。
さて、今回の600本記念ダイブは口之島の「エボシの離れ」という、回遊魚からサンゴまで見られるという特徴あるポイントで迎えました。
600本記念として、同行の皆様と水中での記念写真と夕食時にも特産品の「トカラ海峡焼酎」と記念品を頂きました。
この「トカラ海峡」という焼酎は種子島で醸造されトカラ列島のみで限定販売されている、青い瓶の中々しゃれていて、味もすっきりして飲みやすいお酒だ。
本当に皆様ありがとうございました。
いい記念になりました。
600本記念で「トカラ海峡」という綺麗な焼酎を頂きました
バックは口之島ガイド高木さんと船長中村親子です
写真はダイビングショップ ノリス より
前回のココ島のダイビング時、83歳の男性や80歳の女性が矍鑠と人の手を借りずダイビングを楽しんでいるのを見ると、私などなどまだまだ若輩で、これからも精進して1000本や1500本を目指して頑張ろうと思いました。
さて、600本記念ダイブを迎えることになった今回のトカラ列島のダイビングの内容はというと・・・。
謳い文句が「日本の最後の秘境」といわれて
東シナ海と太平洋の荒波が合流し黒潮の通り道にあたるこの周辺の海域は昔より七島灘と呼ばれており魚の宝庫とされてきた。
南北162kmにわたるトカラの島々の海中は、火山島、リーフの島、水中温泉とバラエティーに富み、その無垢の自然や壮大な地形は潜る者を圧倒し、特にトビウオの季節にあたる5月末から初秋の9月末までは、ロウニンアジやイソマグロ、キハダマグロをはじめとする大型回遊魚との出会いの絶好のチャンスです。
10月からはカジキマグ、マンタなども加わり正に日本の大物宝庫である。
こんな前宣伝につられて期待に胸いっぱい膨らませ、寝られない夜行のフェリーに6時間ばかり揺られる苦行の後、最初に飛び込んだポイントが「エボシの離れ」で600本目の記念ダイブだ。
あれ、流れが全くない!!
東シナ海と太平洋の荒波が合流し黒潮の通り道で激流のトカラはどこへ行ったのか
流れがなければ大物回遊魚もギンガメも勿論姿形なし。
ただ漫然と大物を探し求めてゆったりと泳ぐダイビングで、これが私の600本記念ダイブとなってしまい誠に残念な結果に終わってしまった。
ただ救いは、安全停止中に小型のマンタ一匹が我々の前を通り過ぎてくれたことだ。
ガイドも普段と勝手が違って焦っていたがマンタが最後に出てくれて少しホットした様子。
今回潜る予定の4本のうちまず一本が情けない結果となったが、残り三本に期待を託して潜ったが、これが見事に不安が的中し、初日の残り2本供あえなく撃沈。
流れがなく、大物も始め魚の群れなどにも全く遭遇することなくユッタリ、マッタリのダイビングに始終した。
翌日の最後の一本は海況が打って変わることを期待して飛び込んだが、これも全くの期待外れ。
とうとう今回潜った4本すべてがトカラらしさ?のダイビングは全くできず、高い費用と苦行の工程を経てやってきた甲斐なく終わってしまった。
ただ、ダイバーや観光客も少なく海も陸も自然がそのまま残されていたことはうれしい限りであったが・・・。


魚は少なかったが海の中は手つかずの自然に溢れていました
さて、ダイビングは惨めな結果に終わってしまったが、トカラの口之島から鹿児島までのフェリーが定刻通り運行されることなく、一時間以上遅れることがざらであるため、今回は鹿児島に一泊して翌日の夕刻の新幹線で帰ることにした。
このため、最終日は鹿児島周辺の観光をすることが出来るようになったのだ。
レンターカーを借り目指すところは知覧特攻平和会館と枕崎:白波焼酎の明治蔵(お酒好きが多いため)だ。
江戸時代、薩摩藩の人口の4分の1が武士といわれ、藩の各所に武家屋敷が作られ島津家を守っていたという。
知覧はその中の一つであるが、この武家屋敷の町に飛行場が出来、操縦士の訓練場としていたが、沖縄に近いということで、大東亜戦争の末期に編成された旧陸軍の特別攻撃隊の出撃基地となった。
ここから多くの若い人々が国のため、家族のためと飛行機に大きな爆弾を積み特攻隊として出撃して帰らぬ人となったのだ。
この痛ましく、悲しくもそして勇気ある若者たちの遺品を集め展示し、当時の記録を後世に伝えるために1985年に知覧特攻平和会館が開館したという。


知覧特攻平和祈念館正面と展示されていたゼロ戦
中に入ると目につくのはずらりと並んだ特攻隊員の遺影1,036柱とその遺書である。
ガラスケースに入った遺書を読みながら特攻隊員の遺影を見ると皆きりっと目を輝かせ知性に満ちた顔していた。
確実な死を前にして20歳前後の若者たちが何故こうも明るく出撃していけるのは
祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えた後の”いさぎよさ”があり、権勢欲とか名誉欲などはかけらもなく、ただ祖国を憂う純粋な気持ちだけだったからであろう。

記念館の中の様子:記念館ホームページより


ほとんどの人がじっと展示された遺書を目を潤ませ,鼻をすすらせながら読み進んでいることは、若者たちの純粋さに打たれ、そして感謝の気持ちに溢れ、若くして非情な死を迎える様なことを強いてしまった残された我々日本人としての悔恨なのかもしれない。
遺書を見て驚くのは英知溢れる、一文字一文字書き込んだきれいな文字で、国を、家族、そして郷土を想いそして守るために死に行く事を淡々と述べていた。
昇華した文章の裏には、死への恐怖、生への執着もあったろうに、それを乗り越えた潔さと崇高な精神が感じられる。
館内で通りすがりに若い女性に手を引かれた老女の会話が聞こえた
「もう写真十分見た」
「ああ、見た・・・・」
何気ない会話の一部だろうが、察するに老女は特攻隊員の家族で、若い女性はその孫なのかもしれない。
老女のもう一度写真を見たいという願いをかなえるために孫娘が手を引き案内してきたのだろう。
振り返り、寂しげに背中を丸めた老女が手を引かれながらゆっくりと歩き去るのが見えた。
戦後70年。長いようだがまだまだ終わってない人がたくさんいるのだ。
国が命を奪い、国を守り、国を良くするためと死んでいった多くの人々の魂が祀られている靖国神社。
国の為政者は中国や韓国がどのように云おうが、尊い死者から託された国を守り、よくすることを誓うためにも靖国神社へ機会あるごとに行ってほしいものだ。
それが戦死者や家族への弔いだ。
知覧特攻平和会館見学後枕崎にある”白波”ブランドの薩摩酒造:明治蔵に行きました。
ここでは明治からの焼酎の製造装置でじっくりと時間をかけて作っているところを見学させてもらい色々な焼酎を試飲させてもらった。
私はお酒に弱いのでその良さや特徴は分からないが、出来たばかりの新酒はまろやかですっきりして美味しかった。
ダイビングの帰りに知覧と枕崎と鹿児島の光輝く陽光の下ゆっくりとした時間を過ごしたが、何故か先の大戦の忌まわしさを思い起こす旅でもあった。
終戦間際で日本の敗北が決定的であったにもかかわらず尊い命が失われている。
知覧を代表する特攻隊員1036名、無謀な天一号作戦なるもので枕崎沖で沈没した戦艦大和など艦船の乗組員3700余名の人がなくなっている。
為政者たるものは、若くして死んで行った、特攻隊員や艦船の乗組員の祖国を憂い,想う熱情と家族、郷土を愛する心情を事あるごとに思い起こして、未来ある明るい国作りに邁進してほしいものだ。
今回のツアーでは
ノリス神戸舞子店 平川店長
ノリス神戸三宮店 田中店長
口之島ダイビングショップ 高木ガイド、中村船長
そして他のツアー参加者の皆さま
本当にありがとうございました。


新神戸駅での全員集合および舞子店参加者3名:早速車内で乾杯!!
(ダイビングショップノリスより)