My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

2015年03月


先週、蔵王温泉・松島・中尊寺・銀山温泉など二泊三日の小旅行に行ってきました。
 
最近、海外ダイビングの合間をぬって若い時に訪れた場所を再び巡る旅をしています。
 
2011年秋 北陸金沢周遊。
2012年秋 四国松山・道後温泉。
2013年夏 信州白馬・五竜・栂池・八方尾根。
     秋 比叡延暦寺・滋賀琵琶湖周遊。
     冬 奥能登周遊。
2014年夏 上高地・乗鞍・穂高北アルプス。
     秋 大山・出雲山陰周遊。
     秋 北九州・九年庵等古刹巡り
そして2015年、今回の蔵王・中尊寺・・の旅行だ。
 
いずれも若い時に何度か訪れている場所ばかりだが、若い時の訪問は観光が目的というよりか、スキーとかドライブで友人達と訪れたということが殆どで、気が付かずに素通りしている場所とか、予備知識もあまりなかったためか印象に残ってない場所も多かった。
 
最近の旅は観光が目的で、現地では観光バスによる周遊であるためバスガイドが事細かく説明してくれ、又、何か疑問があれば即スマホで検索して知識を仕入れる事も出来、さらに年をとってそれなりの知識も増えていることもあるためか、若い時に見たものでも歴史などの背景などを知って見てみると何か新鮮な感じがして興味深いものだ。
 
勿論、長い月日が経ち風景も建物も変わっていることも多いのだが、年をとってから若い時に訪れた場所を再び巡ることは、なにか新しい発見があるとワクワクするし、又今日までの人生の一齣一齣を思い起す切っ掛けを与えてくれて、大変有意義なものである。
 
 
さて、今回の旅の工程は
 
第一日
伊丹空港JAL便→仙台空港→観光バスで塩釜経由松島→松島湾内遊覧→蔵王温泉泊
 
第二日目
蔵王温泉(観光バスにて)→平泉・中尊寺・金色堂→銀山温泉→蔵王温泉泊
 
第三日目
蔵王温泉(ロープウェイにて)→地蔵山頂駅(1661m)→蔵王温泉→山形空港JAL便→伊丹空港
 
という工程だ。

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    神戸からの工程行マップ
写真をクリックするとより詳細なルートが表示されます
 (Googl Earth がinstallされている時)

今回の旅の謳い文句は「乳白色の名湯といわれる蔵王温泉の連泊」と、「日本三景の一つ松島の遊覧」、そして「世界遺産の平泉・中尊寺金色堂見学」、「大正の雰囲気を残す銀山温泉見学」そして「蔵王の広大な樹氷原大パノラマの一望」だ。
 
 
工程に従って感想など述べる


今回の旅行の最初の観光地である「松島」は天橋立、宮島とともに海の青と松の緑が対象の妙をなす美しさで江戸時代から日本三景と呼ばれて来たところであるが、私の印象では、「あれ!これだけ」というような印象であった。
 
昔来たときはもっと奥深く、神秘的な印象であったが、今回の湾内周遊は、震災の影響もあるのかもしれないが、各島々の松の木も少なめで元気なく、ただ少し異形な形の島々を巡っていつの間にか終わってしまったという感じで、”感動的な美しさ”には程遠かった。
 
松島はその美しさゆえに芭蕉初め多くの風流人に愛されたというが、どうも私は年とともに趣向も変わり、がさつになって松島の美しさが理解できなくなってしまったのかもしれない。

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  上)上空からの松島(インターネットより)
  下左)鐘島:四つの同門が同時に明けて見えるのは一か所のみ
  下右)仁王島:中間の凝灰岩が甚だしく浸食され、あたかも仁王の像みたい

松島の観光後早めに蔵王温泉の宿泊ホテルに到着してゆっくり温泉を楽しんだ。
宿泊ホテルは蔵王スキー場ゲレンデの直ぐ近くでスキーヤーに便利なホテルだ。
 
私がスキーを楽しんでいた60年頃は日本のスキー全盛時代でスキー列車は超満員で床は勿論、網棚にも寝る人がおるほどで、スキーリフトは3時間、4時間待ちはざらであった。
 
そんな人気の切っ掛けを作ったのが1956年の冬季オリンピックで初のアルペンスキー3冠王(滑走・大回転・回転)となったトニーザイラーで、彼は 22歳の若さで引退して、その後俳優に転身し、映画「黒い稲妻」「白銀は招くよ!」で主演を演じるなどし、この蔵王にも日本映画「銀嶺の王者」のロケーションで、蔵王温泉に1ヶ月以上滞在し、スキーや蔵王の魅力を広めてくれた。
 
今でも、映画の中で、甘いマスクの彼が蔵王の樹氷の中を颯爽と優雅に滑る姿をはっきりと思い起こせる。
 
そんなことで、蔵王スキー場はスキーで何度か訪れた思い出の場所であるが、当時と比べると何か寂しい。
 
平日でシーズン後半ということなのか、ゲレンデは疎らで、勿論リフト待ちの人もおらず、私が記憶する、大音響で音楽を流してスキヤーで埋め尽くされた喧騒としたゲレンデとは全く異次元の世界であった。
 
時折、家族連れで父親が子供達に装具の付け方やそのチェックなどして、ゆっくり滑って行くのを見ると、ただガンガンと滑りまくった私たちのスキーと大きくスキースタイルが大きく違っているが、なんだか今の方がのんびりしていて今様で良いように思える。
 
だが、温泉は何も変わっていなかった。
 
大自然に囲まれて、かけ流しの乳白色で強い硫黄臭が漂うた野趣豊かな露天風呂に入ると本当に寛げるし、これぞ温泉という感じだ。
何十年、何百年とこんこんと湧き出でる湯に浸かっていると40年も前に来たことが本の一瞬で、悠々とした時代の流れを感じさせる一時だた。
 
だが、今回利用したホテルは山形で広くホテルを運営している「タカミヤホテルグループ」のもので、建築家・故丹下健三氏が手がけた設計と、工業デザイナー・奥山清行氏による家具のコーディネイトが売り物の近代的なホテルで、昔私などが利用していた安宿とは大きな違いだ。
 
デザイナーの奥山氏はイタリアピニンファリーナ社デザインディレクターを経て各種の工業品デザインを手掛けているが、最近では北陸新幹線の車両デザインを監修されたことで有名な人だ。
 
やはりここにも時代の流れが感じられる。

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たかみや 瑠璃倶楽リゾート(HPより)
上)ホテル外観 下)ロビーの家具類
 
 
二日目は平泉・中尊寺。
 
12世紀の初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年の役で父経清や祖父などの阿倍一族の死、後三年の役で妻子の死、義弟家衡など清原一族の死を見てきて、合戦でなくなった命を平等に供養し、仏国土(浄土)を建設するために大伽藍を造営したのが始まりだ。
 
藤原氏は、金の産地である利点や馬や毛皮などの様々な物資を商いし、海外との交易も行い栄ていった。
当時の平泉の人口が10万人といわれ、現在は1万ほどであることを考えるといかに栄華を極めたか推測できる。
 
藤原氏三代は

初代 藤原清衡(キヨヒラ) 長治2年(1105)中尊寺一山の造営に着手。
二代 藤原基衡(モトヒラ) 大伽藍毛越寺を建立。

                死亡年代は保元2年(1157)
三代 藤原秀衡(ヒデヒラ) 源義経を少年時代と都落ちの際の二度に

                わたり庇護する。

あの義経・弁慶が一時の安息を求めた地として有名だが秀衡が文治3年(1187)病で急逝して、大きく運命が変わってしまった。

 
ここでの見学はやはり金色堂だ。
 

金色堂は天治元年(1124)に造立で、現存する唯一の創建遺構であるという。
堂すべてが金で覆われていて、内部は金色に輝く阿弥陀堂の四本の巻き柱や須弥檀(仏壇)などには夜光貝で細工された螺鈿(らでん)などがほどこされて美しく
輝いている。


中央の須弥檀の中には清衡公、向かって左の檀に二代基衡公、右には三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公の首級が納められているという。

 
この金色堂は大きな覆堂に囲われていて雨風から守られているのだが、その分暗く屋根とか床は金色には見えなかった。
がしかし、聞けば聞くほど、見れば見るほど内陣の螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や緻密な彫金などに最高の平安仏教美術を築き上げた職人達の粋と拘りを感じさせられた。
 
最近20129月に、東芝が東日本大震災からの復興支援活動の一環として、中尊寺に、LED照明設備と太陽光発電システムを寄贈したのだが、その光あてられた金色堂の写真は本当にすべてが荘厳に金色に輝く息をのむ様な美しさである。
 
だが、私が見学した時は覆堂の中は薄暗く、金色堂全体は黒く、中央部のみに薄く光が当てられ、写真で見るほどの荘厳さは感じられなかった。
 
折角の寄贈された照明装置だが、出し惜しみされた様な感じで残念であった。どんな時に使用するのか聞いてみたいものだ。

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              中尊寺の金色堂
     上左)覆堂の外観 この中に金色堂が収まっている
     上右)LED照明で金色に輝く金色堂
     下左)中央部の須弥壇 螺鈿細工や蒔絵の緻密な細工が見事
         この中に藤原4代の遺納められている
     下右)須弥壇のクジャクの彫金 見事な緻密な細工は職人拘りだ


中尊寺の後は銀山温泉街の散策だ。
 
銀山温泉は銀山川の両岸に大正から昭和初期にかけての建築の旅館が立ち並び、多くの旅館は、建築された当時としては非常にモダンな三層四層の木造バルコニー建築であり、外装には鏝絵が施されている。
川には橋が多くかかり、また歩道にはガス灯が並んでいる。
 
この温泉街の下流側から眺めた景色が大正ロマン漂う光景として色々な広告に使われ我々に馴染み深いものになっている。
 
 
訪れた時は午後少し遅くだが、宿の部屋の明かりや街灯などは点灯されず、薄暗さが目立ち始めた中途半端な時間であったが、川を挟んだ両側の歩道には時折大正時代風の和服を装ったカップルやこの温泉街の特徴ある浴衣を着た宿泊者がそぞろ歩く姿は背景の大正風の旅館によくマッチして、一昔か、二昔にタイムスリップした感じがして趣があった。

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     銀山温泉の街並み 大正風の旅館がしっかり残されている
     職人が鏝で描いた鏝画も見事だ
 
何故か、中尊寺も銀山温泉も観光客が少なく、ゆっくりと中尊寺の広大境内を巡り、ぶらぶらと銀山温泉のきれいな鏝絵を見、お土産屋さんを覗きながらの優雅な散策を楽しむことが出来た。
 
 
銀山温泉の後は、再び蔵王温泉に戻り、かけ流しの乳白色の温泉と山形の郷土料理を満喫させてもらった。
 
 
三日目はロープウェイを利用しての広大な樹氷原のパノラマ見学だ。
 
樹氷(ice monster)は、東北地方の奥羽山脈の一部の山域(八甲田山、八幡平、蔵王連峰、吾妻山)の亜高山地帯にしか確認されず、特殊な条件下で出来るとのこと。
 
まず、
「アオモリトドマツ」などの着氷と着雪の起こりやすい常緑針葉樹が自生していること。(ブナなどの落葉広葉樹では氷や雪がつきにくい。)
 
積雪が適量であること。
(雪が多すぎると、「アオモリトドマツ」は埋没してしまい、少なければ、当然樹氷はできない。
 
そして温度がゼロ以下となる。
 
樹氷のサイクル樹氷は、「アオモリトドマツ」に雪雲のなかの「過冷却水滴」が枝や葉にぶつかり凍りつく→着氷のすき間に多くの雪がとり込まれる→0℃付近の雪は、互いにくっついて固く絞まる

という現象が繰り返され、風上に向かって成長したものを樹氷と呼ぶ。
 
蔵王の樹氷は地蔵山(標高1736m)の頂部付近の広大な範囲に群生していることで有名であるのだが、今では二つのロープウェイ(山麓線、山頂線)経由して蔵王山麓駅(標高855m)から地蔵山頂駅(標高1661m)へ簡単に行けるのだ。
 
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           日本有数の規模を誇る蔵王スキー場

前日の夜からのかなり激しい雨で山頂まで行けるかどうか心配したが、一夜明けると雨も止み時々明るい日射しも差し込む無風の絶好の天気であった。
 
早速ロープウェイに乗りこんだが、乗客は我々ツアー客と2,3のスキーやスノーボードを抱えたスキーヤーが居るだけだ。
本当にスキーをする人が少なくなってしまったのであろうか?
私がスキーに熱中してた時期とは全く隔世の感だ。
 
山頂付近に近づくと、降り積もった真っ白な雪原一面に大きな樹氷が至る所に林立しているのが一望できる。
皆形はもっこりしているがよく見ると千差万別な形で面白い。
 
地蔵山頂駅周辺にも歩いて行ける範囲で大きな樹氷が多数みられ、その形と大きさは雪原に立つ仁王のようにも見られ、”ice monster” といわれる所以がよくわかる。
 
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   上)快晴時の見事な樹氷(インターネットによる)
   下左、右)地蔵山頂駅付近の樹氷 昨日の雨で形が崩れ始めている

時折次のロープウェイで到着した45人のスキヤー達が樹氷の間を縫うように急斜面を滑降して行った。
ロープウェイで簡単に頂上に上れて、こんな広大な雪原を独り占め出来るようなスキーが楽しめるのならばもっと多くの人がもっと来てもいいのにと思うのだが・・・。
 
これも、平日であるからかもしれないが、これならもう一度スキーをしてもいいなと思うが、弱体化してしまった体力に叶わぬ夢とすぐに現実に引き戻されてしまうが、一人純白の雪原を雪煙を上げながら滑降する自分を夢想する楽しい時間が出来ただけでも今回の旅行の大きな収穫だ。
 
山の天気は変わりやすく、頂上で樹氷を見ている間に麓から霧が湧き上がり、ロープウェイで下山する頃にはあっという間に一面真っ白な世界になってしまった。
 
真っ青な空と真っ白な雪原。そしてそこに林立する巨大な樹氷群が見れたのはほんの30分ぐらいだったが、美しい景色を見て若き元気なころを夢馳せるには十分な時間であった。
 
ロープウェイで下山後、蔵王温泉のホテルで昼食をとり、山形空港から伊丹へ、途中は旅の疲れからか、ほとんど快い居眠りの時間を過ごしながら、ユッタリと夕刻前には帰宅することが出来ました。
 
二泊三日の短い旅でしたが、若い時に訪れたところに年取って再び行って、その時の若い時の気持ちに戻るには時間の長さは関係ないのだと改めて認識し、今後も頻繁にこのような小旅行を計画し、実行しようと思った。

 
船は右手に緑に覆われた三角のおにぎりのような形の島を見ながら、波ひとつない静かな狭い海峡を進んでいくと大きなコンクリート製の桟橋とその左手に小さく瀟洒なホテルが見え、鬱蒼とした木々の間から砦の丸い見張り台の一部が見え隠れしてきた。

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 バンダ諸島のネイラ島に上陸。 静かで落ち着いておりここで
  
 17世紀の香料戦争の舞台となったとはとても思えない
  
 

これからバンダ諸島の中心的島であるバンダナイラ島に上陸するのだ。
 
今回の、特別企画「アンボン・バンダ海・ラジャンパットクルーズダイブ」への参加でダイビングとともに大きく期待したのはここバンダ海に浮かぶ小さなバンダ諸島を訪れることだった。

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バンダ諸島は古くからスパイス・アイランズ(香料諸島)と呼ばれてきたモルッカ諸島の南部、バンダ海の北東部、セラム島の南100キロほどにあに位置する10の火山性の小さな島々かなるが、ナツメグなどの香辛料が採れるということで欧州の国々によるスパイス戦争の暴虐にさらされた歴史を持つ悲劇の島々でもある。
 
バンダ諸島の中心市街があるのはバンダナライ島、狭い海峡を挟んで標高520mグヌン・ガピ火山をいだくグヌン・アピ島が対峙する風光明媚な所だ。

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バンダナイラは赤道直下のぎらぎらと輝く強い日射しに照らされるが、鬱蒼と茂る真っ青な木々の木陰はそよ吹く海風もあり本当に心地よく、子供たちが遊ぶ声が時折聞こえるだけで人かげもまだらな本当に静かな町だ。
 
こんな静かで穏やかなところで17世紀の初めにオランダにより島民の殆どが虐殺されるような悲劇が起きたとは全く思えない。
 
バンダナライ島の博物館にその虐殺の状況を描いた1枚の絵が展示されて、しかも日本人がその虐殺を行っているという。
 
是非その絵を現物で見てみたいと期待して来たのだ。

 
上陸してすぐ現地人ガイドに連れられ、当時の小さな西洋建築風建物を利用した博物館に行きました。
 
正面入り口を入ると、すぐ目の前にお目当てのものがありました。
 
人の背丈ほどの高さの大きな絵です。
 
バラバラになった原住民の手足胴体の中で返り血をあびた二人の虐殺者が仁王立ちしている。
褌とチョンマゲそして血に濡れた刀を持つ姿は見間違うはずもなく日本人である。
絵の左端には南蛮風俗の西欧人が虐殺の命令者として描かれている。

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博物館に展示されていた虐殺を描いた絵画
 

何故ここに日本人が??
何故こんなことが??
 
 
バンダ諸島はいくつかの小さな島からなる陥没火山島であるが、高級香料のナツメグの原産地であっため、16世紀以降、ポルトガルに続きイギリス、オランダがやって来てナツメグを求めたが、交易に関心の薄い住民は生産の増加に非協力的であった。
 
オランダ東インド会社のクーン総督はナツメグの独占と採取量の増加を計るため16212000人規模の兵を送りこみ島民1万2000人を虐殺してしまった。
島で生き残った人は数百名に過ぎないという残虐行為だった。
 
虐殺の後、ナツメグの栽培のためアジア各地から送り込まれた奴隷たちが今の島民の先祖となった。
 
この虐殺を描いたのが博物館に展示されている絵なのだが、日本人は関ヶ原の戦い後、職をなくした浪人たちが傭兵としてオランダに雇われたものだという。
 
だが、この日本人傭兵の多くはオランダの策略でオランダ支配の転覆を図ったという罪で処刑されてしまったという。
 
 
今日、バンダ諸島は静かな生活の中にあり、島々に香料の嵐が吹き荒れたことを思い起こせるのは海を見渡せるよう築城されたベルギカ要塞である。
この要塞の大砲は海からの侵入者ばかりでなく島の居住者にも向けられていた。
 
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   ネイラ島のベルギガ要塞から見た素晴らしい景と町からみる
   隣のグヌン・アビ島のガピ火山

バンダナライ島上陸見学後、バンダ諸島周辺やラジャンパットで予定通りダイビングを楽しんで帰国したが、バンダナライ島で見たあの絵画が頭に残りどうもすっきりしない。
 
 
何故、今ではどこの家庭でも普通に見られる胡椒やナツメグのような小さな香辛料のために何十、何百万もの人たちが苦しみ、殺されなければならなかったのか??
 
そんな中、新聞広告で見つけた本が
 
「胡椒 暴虐の世界史」  白水社刊 2400
       著者:マージョリー・シェファー  栗原 泉訳
 
この本の帯に
「人々はなぜ、血眼になって黒胡椒を求め、命を賭してまで危険な旅に出たのか? 血で赤く染まった胡椒の争奪戦を、現地の承認や海賊、宣教師、旅行家らのエピソードで描いた、傑作歴史読み物。」
とある。
 
正に、私のモヤモヤを解決してくれるものと即購入して読み始めたが、260ページに細かい文字でビッシリとあり、時間がかかったが中々薀蓄のある本であった。
 
 
少し内容を紹介すると
 
食卓に欠かせない胡椒は、かつてヨーロッパで非常に貴重な品で、薬としても珍重されたり、同量の黄金と取引されたという。
 
香辛料が高い価値を持ち、大きな収入を上げられるとわかると、ポルトガルを初め、オランダ、イギリスはすぐにインド、アジアの地域において独占権を得ようと争いに加わった。
胡椒など香辛料が熱帯以外ではどうしても育たなかったという事実こそが胡椒をより貴重なものとし、ひいては植民地主義と帝国主義という邪悪な歴史を生んだという構図であると著者は指摘している。
 
それがため、一航海で純利700%をも利益を出すが、半数以上の人が病気や事故で死亡するというハイリスクのビジネスに人も国ものめり込んでいく。
 
 
大航海時代の15世紀半ばから、一獲千金を夢見た人がインドやインドネシアなど熱帯の産地を目指し、まずポルトガルが、次いでスペインが最強国の一つとしてこの海域に進出しましたが、それに続いたのがイギリスやオランダ、そしてフランスであった。
 
イギリスは1570年、エリザベス一世の勅許を受けドレークはカリブ海で海賊としてスペイン船を掠奪、1577年にはマゼランの開拓したコースをたどり、2年後にテルナテ島に到着した。
これを皮切りに、1600年に東インド会社を設立し、ここを拠点にして布石を打っていった。
 
オランダも1500年代の末、モルッカ諸島に進出し、将来のオランダ支配の基礎を築き、1602年に株式会社のモデルとなった東インド会社を設立、ここを拠点にポルトガルの追い落としにかかります。
 
こうして、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ4国による戦乱状態がエスカレートしていきます。


勢力分布が確定してきたのは1640年ごろで、1641年にオランダはマラッカを強襲してポルトガルから奪い、マラッカ海峡を支配した。

ここから得られる利益を基に、オランダは18世紀末までの2世紀にわたり繁栄の時代を謳歌する一方、イギリスは香料列島におけるオランダとの協調の可能性を失い、インド植民地に全力を傾けるようになった。
 
先の4か国は勢力を拡大するために非道なことをしてきたが、中でもオランダの行動は暴力的で残虐さは飛びぬけていた。
 
島々や拠点で反抗の兆しがあると軍艦を差し向け、艦砲射撃で無差別に住民を殺戮するとか、先に述べたバンダ諸島では12000人もの島民を残虐に殺戮するとか、
1623年には10人のイギリス人を拷問にかけ斬首すると言う「アンボンの虐殺」という事件を起こしている。
 
オランダ人は同じ町に居るイギリス人がオランダの要塞を攻め、オランダ支配を転覆させるという計画をしているという罪をでっち上げ、10人のイギリス人を捕らえ拷問にかけ自白を強要した。
 
結局、拷問による自白により、9人のイギリス人と一人のポルトガル人、そして自分達の傭兵である10人の日本人を処刑してしまった。
 
生き残ったイギリス人がイングランドで発表した拷問の描写はオランダ人の残虐性の記録として、長い間記憶にとどまることになり、そしてこの「アンボンの虐殺」は広く世に知られ、イギリスとオランダ間の憎しみの下地となり、17世紀に三次にわたり砲火を交え、18世紀には4度目のオランダに大きな痛手をもたらす戦争を起こすことになった。
 
 
更に著者はこの香料戦争は環境面でも悲惨な破壊をもたらしたと述べている。
 
乗組員の食糧や水を確保するため、胡椒航路に沿って大量の野生動物が理不尽に殺戮された様子が描かれている。
(船員たちにより絶滅させられたドードーや、殺され捨てられたゾウガメの甲羅でできた島や、三万頭のアザラシに大砲を撃ち込む話など目を覆うばかりだ)
 
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        船員たちによる乱獲で絶滅してしまったドード
  
 
これだけ非道で残虐な統治を行ったが、オランダの栄華は、思わぬ形で崩れていった。

フランスはこれらヨーロッパ諸国と正面から争うことなく、クローブやナツメッグなどの利益を生む苗木を生育地から盗み出し、フランスの支配下にある植民地へと移植して育ててるといった知略でスパイスから得られる利益を追求し、イギリスもまた同じ方法でスパイスを各地に広げた。
 
このためスパイスは各地へと移植が進み、栽培地の広がりにより、香料諸島の苛烈な植民地政策は急速に意味を失い、スパイス戦争は自然のうちに消滅し、島々はようやく以前の静けさを取り戻すことができという。
 
 
それにしても、「胡椒」というあだ花が人が人を拷問し、殺戮し、非道の限りを尽くし、環境を破壊し、貴重な生物を絶滅まで追い込むような暴挙を起こすとは・・・・。
 
もし、「胡椒」がなくても何か別のものや理由を見つけてあの時代の西欧社会は弱小国を植民地化するため同じような暴挙をはたらいたのだろうか?
 
今の時代に置き換えたら、どんな「胡椒」が出てきても人類はもはやあの時代のような暴挙を犯すことはない・・と自信もっていえるのだろうか。
 
色々考えさせられる本だ。
是非一読を!!

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