明日より行くオマーン。

まずオマーンとはどんな国なのか?
中東で産油国で、ホルムズ海峡を支配・・・そしてアラビアンナイトと乳香の国。
あまり具体的なことがすぐに頭に浮かばない。
ちょっと調べると、
国土はアラビア半島の東端、日本の約80%の面積に約450万の人口を擁し、ペルシア湾の出入り口にあたるホルムズ海峡に面したところを飛地(ムサンダム特別行政区)として支配しており、軍事上も重要な位置にある。

イメージ 1
                                  オマーン国と飛び地ムサンダム半島 

アラブ首長国連邦、クウェート、カタール、バーレーンなどと同じ部族長を首長として戴く「首長国」である。
現在も首長(スルタン)が絶対権力を握っているが、産油国としての経済力が首長政権を安定させている。

で中東、どうも漠然としているので中東の地域の国々は?と調べると

イメージ 2

              ”中東”の概念 その範囲は色々違いがある
 
中東という地域概念は明確でなく西欧ではアフガニスタンを除き、日本の外務省の表示ではエジプトを除いている。
ますますわからなくなったが、要はオマーンは中東のど真ん中に位置している。
 
まず私がオマーンで思い浮かべることは「乳香」と「アラビアン・ナイト」である。

イメージ 3


乳香はオマーンやイエメンなどのアラビア半島南部に自生するボスウェリア属の樹木の樹脂を固化したもので、その塊を焚いて香とし、又香水などの香料として使用されている。
古来より宗教儀式や治療薬として使用され、クレオパトラやシバの女王も親しんだ高価な香料で、オマーンはこの乳香の交易で栄え、莫大な富を築いた古代都市の遺跡が点在する。


乳香は高価な香料で黄金に匹敵していたという。

紀元前900年頃、アラビア半島南部を統治していたシバの女王がソロモン王に謁見する際に持参した多大な贈り物中に、大量の黄金、宝石、ならび乳香、没薬等があったという。


乳香はこの木の樹脂を固化したもの


イメージ 4また、キリスト誕生時、東方の三博士が星の導きによりベツレヘムを訪れ、幼子キリストを拝みお祝い品を献上したとされる。
その時の献上品が黄金と乳香そして没薬であったという。












東方三博士の礼拝 ベラスケス作

砂漠の国にこの乳香がもたらした富は図りしれず、乳香を運ぶ「乳香の道」沿いにはいくつもの栄華を誇った古代都市ができた。
 
その中でも印象的なのが、コーランやアラビアンナイトの言い伝えにもある、乳香の交易で繁栄を極め、強欲で不道徳な生活を続けたため、神の怒りをかって崩壊されたという謎の古代都市ウバールがある。
数千年間誰も見つけることができず、の失われた遺跡とされてたが、1990年代にNASAの人工衛星により発見され、“砂漠のアトランティス”ウバールと言われた都市が実在したという話は古代歴史好きにはたまらなく魅力的だ。

イメージ 5
               発見されたウバールの遺跡

「アラビアンナイト」については「千一夜物語」と言って、ササン朝ペルシャにてペルシャ王に妻シェヘラザードが毎夜毎夜近隣地域の逸話を話したものとされるが、ヨーロッパに伝わり、アラジンと魔法のランプ・シンドバッドの冒険・アリババと40人の盗賊・空飛ぶ絨毯など次々と話が追加され、合計の逸話の数が「千一夜」となったという。

 
我々誰もがこの話を見、聞きして「アラビア」というイメージが出来上がっているものと思うが、近年中東の多くの国が超近代的な都市づくりを進めていて、我々が持つアラビアのイメージとかけ離れてきているが、オマーンは首長の拘りで、”アラビア風”を残すことを徹底しているという。
我々がもつアラビアのイメージがオマーンで現実に見ることが出来るとは有り難いことだ。
今回の旅行の大きな楽しみの一つでもある。

イメージ 6
                  アラビア風のイメージ


オマーンは大航海時代以後はダウ船を使ってアラビア海、インド洋をまたにかけ、1719世紀にかけては西欧列強をはねのけ、東アフリまでも勢力下におく海洋帝国であった。


イメージ 7オマーンは16世紀初頭にはポルトガルの支配下に入るが、ポルトガルが没落して来た時期を見図り、1650年、オマーンは現在の首都マスカットをポルトガルから奪還、52年にははるか東アフリカ沿岸のザンジバル(現在のタンザニア)、83年にはパキスタンのグワダルを手に入れ、96年にはモンバサ(現在のケニア)をポルトガルから奪い取りる。


わずか50年の間にオマーンは、東はパキスタン南部からアラビア半島東部全域、ソマリア~タンザニアに至る一大海上帝国の座を確立し、1804年に即位したサイイド=サイード(サイード大王)のもとオマーンは黄金時代を迎える。

 





オマーン海洋帝国勢力範囲地図

大王は帝国の首都を東アフリカ貿易の拠点だったタンザニアのザンジバルに移し、
ここを拠点にして各国の貿易船がひっきりなしに訪れる空前の繁栄を享受した。

イメージ 8
                  ザンジバル地図及びスルタン宮殿
 
オマーン海洋帝国に大繁栄をもたらした交易は乳香でなく奴隷だったというからなにか皮肉なものを感じる。
 
しかし、急激に繁栄した海洋帝国は衰退もあっという間であった。
 
時代の変化というか、蒸気船の発明と1869年のスエズ運河の開通により地理的優位を生かして繁栄した帝国はインド洋での交易でザンジバルはもはやその優位性は失われ急激に衰退してしまった。
 
弱った帝国に大国はすかさず介入し始め、1856年サイード大王が亡くなると早くも帝国をイギリスの策謀でオマーン領とザンジバル領に分裂させ、68年にはかつての首都マスカットを占領し、事実上オマーン領を植民地にしてしまった。
 
ザンジバル領の方は、1890年、ドイツがオマーン帝国のかつての植民地タンザニアを手に入れると、焦ったイギリスは遂にザンジバルの保護国化を宣言する。
そして、親イギリスのスルタンが1896825日に死去し、その後継者をめぐり、イギリス領事が認めない後継者があとを継いだということで、条約違反だとして、1896827日午前9時までに軍を解散させ、王宮を開放するよう最後通牒を送った。
 
イギリスは1896827日午前9時までに要求が満たされなかったため、92分艦砲射撃を開始した。
この攻撃に驚いたザンジバル軍は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまい、940分に王宮の旗が撃ち落とされ、戦争は終結した。

イメージ 13
             イギリスの艦砲射撃で崩壊したスルタンのハーレム
 
これが世に云う不名誉な”40分間戦争”(イギリス・ザンジバル戦争)でギネスブックにも史上最短戦争として記載されているという。
 
この戦争後はオマーンは主権国家としてのザンジバル・スルターン国の終焉、そしてイギリス勢力下時代の始まりとして位置づけられる。
 
その後、油田も発見され、1976年には石油輸出も開始され、1971年にイギリス保護領より独立し、国際連合に加盟した。
 
大国の思惑で翻弄され、1617世紀に起こった国際関係上のいくつもの偶然が重なって、辺境の貧しい国を世界史を変えるほどの大国にのしあげ、そして植民地へ、その後石油発見で経済発展を成し遂げる。
人で例えると波乱万丈の人生だ。
 
現国王の叔母に当たる人が日本女性でそれも神戸の出身。
オマーンと日本。皇室や安倍さんの訪問。いい関係が続いているが、この際じっくりとこの世界の変化に耐え生き抜いてきた国の人々の内なる面もじっくり見さしてもらうのも大きな楽しみだ。
 
さらにオマーンには触れないわけにはいけない大きな地質学的な特徴があるのだ。
 
オマーンの地図をよく見てみると、北側オマーン湾に面しているところだけに山脈(アハダル山脈)が走りその他は広大な砂漠地帯が広がっているのだ。
 
何故ここだけに山脈が・・・。

イメージ 11
                オマーン湾に沿って山脈が走っている
 
オマーンは数多くの地質学者や地質学愛好者を惹き付けている。
 
2億年前から約18000年前にパンゲア大陸が北のローラシア大陸と南のゴンドワナ大陸に分裂したことで、その間にテチス海が誕生し、この中央海嶺では火山噴火や熱水活動とともに海洋地殻が生み出された。
9500万年前になると、ゴンドワナ大陸から切り離されたアフリカ大陸や当時これと地続きだったアラビア半島やインド亜大陸を乗せたプレートが北上を始める。
このプレートとテチス海の海洋プレートが衝突し、この海洋プレートがアラビア半島部分に乗り上げた。

イメージ 12
             図右のアラビプレートがユーラシアプレートに衝突
 
これが岩石化したのが、オフィオライト(海洋地殻から上部マントルにかけての連続した層序がみられる岩体のこと:マントル構成物質を直接採取できるものとして評価されている)で、オマーンの北部海岸に横たわっている。
 
海洋プレートは海底から4から7キロメートルまでの海洋地殻とその下のマントルから構成されている。
これが陸上に乗り上げたことで、オマーンでは居ながらにして海洋プレートの上部をほぼ原形のまま観察することができるのである。
しかも、オマーンの地上に露出しているにオフィオライトは厚さ15キロにも及ぶ世界最大規模のものであり、世界中の地質学者の楽園となっている。
 
なお、この様なプレートの衝突で形成されたものとして、ヒマラヤ山脈は、9500万年前にゴンドワナ大陸から切り離されたインド亜大陸(現在のインド半島)がユーラシア大陸と衝突してできたものであり、日本でもフィリピンプレートの乗る火山群が日本列島に衝突して伊豆半島が形成された。
 
火山や地球史に興味を持つ私としては、詳しくはわからなくても、この様な太古の歴史を物語る現場に立ち、見るだけでも、地球の悠久の歴史の一部を垣間見る感じでなんだかワクワクするのだが・・・私だけなのかな?
 
さて、最後にオマーンでのダイビングにふれると、

今回のダイビングはオマーンの離れ地ムサンダム半島から出発する、ダイビングクルーズ船・OmanAggressorに乗ってのダイビングだ。

 
この船2017年に竣工したばかりの新造船で、豪華でダイバーに便利なように工夫が到るところに施された船と聞いておりアフターダイブも十分楽しめそうだ。

イメージ 10
           キャビンの一例:狭苦しい蚕棚の部屋と大違いだ


ムサンダム半島はホルムズ海峡に突き出したオマーンの飛び地で厳しい山岳地帯でアラビアンプレートがユーラシアプレートに沈み込んでいる現場でもあるのだ。
中東のノルウェイと呼ばれる複雑なフィヨルド地形している。

イメージ 9
              素晴らしいムサンダム半島の景色の


オマーン湾でのダイビングは総じて干潮により流れが強く、それも場所によりかなり変化するようだ。
ダイビング形式はドリフトが主体で、紅海と同じように魚の濃度は素晴らしく珊瑚も元気で生き生きしているという。
初めてお目にかかる固有種もたくさんお目にかかれるようで楽しみだ。
 

ヨーロッパとアジアの中間に位置する故、古代、中世、そして現代史において栄枯盛衰を味わった中東の小国、そして地球地殻移動の最前線にある国。




そんな国でのダイビング。
南洋の小さな島でのノンビリ、ユッタリダイビングとは全く違ったダイビング以外の+αも十分期待できるそうで、このワクワク感がたまらない。
 
それでは行ってきます。
帰国後詳細レポートご期待下さい!