My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

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今、日本とインドは世界でも珍しい”特別な関係”にあるという。
”特別な関係”にあるインドへ今回はダイビング抜きの観光のみで一人旅でじっくりと見てこようと思う。
 
日本とインドの”特別な関係”とは、先月29日に来日中のインドのモディ首相と安倍晋三首相との30日の会談で一致した、日印関係を「特別な戦略的グローバル・パートナーシップ」と位置づけたことによる。
 
「海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定例化など、関係を強化するための具体的な計画も打ち出した。安倍総理は,インドは価値観と戦略的利益を共有する重要なパートナー,インド太平洋地域の更なる安定と繁栄に向けて,日印「特別」戦略的グローバル・パートナーシップを更に強化したい旨述べた。」(29日産経新聞) 
 
 
安倍首相は今回のモディ首相との会談ではかなり戦略的な考慮をしている。


日本の首相として、7年ぶりに中国を公式訪問し、習近平国家主席らと会談し、
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日に帰国したばかりで、間を置かずに今度はインドの首相と会談に臨んだ。
実は、インドと中国は国境が接していて、軍事・貿易両面で常に緊張関係にある。
今回の訪問で、中国が進める一帯一路に、条件付きで協力姿勢を打ち出した安倍首相として、一帯一路に警戒感を示す、インドのモディ首相を別荘に招き、腹を割って、日本の真意を説明したいとの思いもあるとみられる。(28日フジテレビ)

 
緊密なスケジュールで中国訪問後、外国の首脳を初めて自分の別荘に招く異例の歓待をし、両者の会談では日印「特別」戦略的グローバル・パートナーシップを更に強化したいと打ち出した。

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         安倍首相の別荘でモルディ首相と会談
 
先の訪中で安倍首相は日中通貨スワップ協定再開や第三国での日中経済協力を決めたが、これは「日中の戦略的接近」ではなく、単に日中関係が正常化し、元の「友好国」に戻ったにすぎないが、インドは「自由で開かれたインド太平洋戦略」の重要なパートナーで、成長著しいインドを重視する姿勢を強調したい狙いとインドは、オーストラリアなどとともに対中包囲網を形成する日本の「準同盟国」となりつつあることを安倍首相は国際社会に印象づけたかったように思える。特に中国に対しても。
 
それにしても安倍首相とモディ首相の親密度はすごい。
過去12回にも渡る会談でお互いに腹を割った言いたいことを言い合う間柄になったから世界でも珍しいと言われる”特別な関係”を構築出来たのであろう。
 
だがそれは一重に安倍首相のインドに対する敬愛と感謝の心が相手に伝わりここまでになったのだと思う。
 
 
安倍首相は第1次政権時代の2007年年8月にインドを訪問した際、パール判事の長男、プロシャント・パール氏とインド独立活動家・チャンドラ・ボースの遺族と面会している。

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        靖国神社にあるラダ・ビノード・パール判事の顕彰碑

安倍首相とプロシャント氏との面会は、旧日本軍の行為に不快感を残すアジア諸国から反発を招くとして、周辺からは懸念する声もあり、面会せずに帰国をとの進言を、首相の判事への思い入れは強く、首相はこれらを退け実現したものである。

インドのパール判事は東京裁判(極東国際軍事裁判第二次世界大戦日本が降伏した後の194653から19481112にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制軍事裁判のことである。)に対する意見書で、戦勝国が事後法により敗戦国を裁くことに疑問を提起し、原爆投下を批判した人物として知られる。

尚、1966年昭天皇より勲一等瑞宝章を授与されている。


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           極東軍事裁判(東京裁判)の様子

 

パール判事(故ラダビノード・パール)は判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した人で又、日本に対して自国側から宣戦したソ連及びオランダが本件の訴追国であることの裁判の矛盾を指摘している。

 

パール判事の長男プロシャント・パール氏(81)と面会した安倍首相は、「パール判事は多くの日本人から今も変わらぬ尊敬を集めている」と語りかけた。

そして、安倍首相との会談についてプロシャント氏は、「非常に喜ばしいこと。父の公正な判断が人々の記憶にとどまっていてくれることを誇りに思う」と、また「戦争の片方の当事者のみを戦争犯罪で裁くことが可能だとは思わない」と父親の判定に同感を示したと言われる。

 
そして20149月モディ首相が訪日した際、スピーチで「インド人が日本に来てパール判事の話をすると尊敬される。自慢できることだ。パール判事が東京裁判で果たした役割はわれわれも忘れていない」と述べた。
両首脳は「歴史」を通じてさらに友情を深めたことであろう。
 
 
一方、インド独立活動家・チャンドラ・ボースは英国植民地時代のインドで、非暴力での独立を目指したマハトマ・ガンジーと袂を分かち、第二次大戦の勃発後、日独枢軸に支援を求めて獄中から脱出し、当初ドイツに逃亡したが、後に反英運動に対する日本の支持を得、東京でインド国民軍を組織したが失敗。
日本の敗戦から3日後、台湾で事故死した。

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           インド独立活動家・チャンドラ・ボース
       

チャンドラ・ボース記念館を訪れた安倍首相はボースの遺族らに「英国統治からの独立運動を主導したボース氏の強い意志に、多くの日本人が深く感動している」と述べ、ボースの姪にあたるクリシュナ・ボースさんは、「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるのなら、私たちインド人も、ボースが英国の植民地支配に抵抗するためにインド国民軍を組織したことを支援したのが、日本だったことを思い出すべきだ」と語ったという。
 
 
安倍首相は、A級戦犯容疑で逮捕されながらも後に釈放された安倍首相の祖父、岸信介元首相とパール判事とは交友関係にあったというから、特に熱い心情をお持ちなのかもしれませんが、一国の首相が日本がお世話になった歴史的人物の遺族に直接面会して日本国民として感謝を申し上げる、この人を想う気持ちと気配りが安倍首相の信条で、お互の国民が心で繋がり尊敬し、信頼し合うことを時をかけて強め、蓄積し、現在の世界でも珍しい”特別な関係”を築き上げたのだろう。
この関係は我々みんなが本当に大事にしなければと思う。


こんな友情あふれる大切な国インドであるがまだ行ったことがなく、ダイビング主体で選ぶとインドはダイビングには縁遠い国と思っていたが、考えてみると有名な「ゾウと泳げる海」があるのはアンダマン・ニコバル諸島 で、インド東部のベンガル湾に浮かぶ、インドに属する島々だった。


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      インド・アンダンマン・ニコバル諸島のダイビングは透明度抜群

 

あまりにもインド本土から離れ、タイかマレーシアに属するのかと思っていたほどである。

ここは活火山の海で、透明度抜群でカラフルなソフトコーラルとハナダイヤの乱舞する海なのだが、インドから遠く離れており観光とダイビングは同時にはできそうもないので、今回は、ダイビングは次の機会にし、インドの観光に徹する旅としました。

 

旅行案内書ではインドは日本の9倍の広さがあり、28の文化遺産、7つの自然遺産、一つの複合遺産、合計36の世界遺産があるという。

今回観光で訪れるところは北部エリアが中心だが、それでもこのエリアには16もの世界遺産が点在している。


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        インド主要都市地図 今回は北部エリアの観光

 

8月のスリランカの旅行では九州ほどの大きさであったので車で8つの世界遺産の内6つを駆け足で観光したが、広大なインドではとても全土を短期間では廻れないので北部エリアを中心に限定して廻ることにした。

 

それでも移動手段には飛行機、車、列車と変化に富んで、それぞれで広大なインドの大地を悉に眺めることが出来そうで大変楽しみだ。

 

訪れるところはデリーからパラナシ移動して仏教の聖地サルーナートで大きなストゥーバ等、そしてガンジス川のヒンドゥー教の夜の儀式「アールティ」や早朝ボートで沐浴風景など見学。



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          仏教の聖地サルーナートのストゥーバ


ガジュラホではガジュラホ遺跡や各寺院観光

ジャンシーではオルチャ遺跡観光

アグラでは早朝のタージ・マハル鑑賞

シャイプールでは風の宮殿・ジャンタル・マルタン・アンベール城等々

デリーではフマユーン廟鑑賞・・・

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     ガンジス川のヒンドゥー教の夜の儀式「アールティ」川原の荼毘・沐浴

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      ガジュラホ寺院の外壁を埋め尽くすなんともエロチックな像達

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                オルチャ遺跡
 
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         アーグラーの世界一美しい墓:タージ・マハル

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               ジャイプール  風の宮殿

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        シャイプール ジャンタル・マルタン・アンベール城

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 左 アーグラ城 右 デリー・フマユーン廟

盛りたくさんの計画で書ききれないが、インド内7泊の慌ただしい旅だがインドの歴史、宗教、そして地理・地形など好奇心を奮い立たされる事のオンパレードだ。
 
目を見開きじっくりと見学し、楽しんできます。
 
詳細は帰国後乞うご期待。
(掲載した写真は全てインターネットより拝借させて頂きました)
 
では行ってきます。

明日から待望のスリランカへ観光、今回はダイビングは抜きで、行ってきます。
 
スリランカといえば昔セイロンと言って紅茶が有名で、九州の1.2倍の面積の小さな(?)な島に2100万人もの人口を有し、世界遺産が8つもあり(日本には21ありますが)、世界のガイドブック「ロンリープラネット」の2013年版でもっとも旅行したい国No.1に選ばれた国と聞くが、チョット前の2009年までの26年間は、シンハラ人とタミル人との大規模な民族対立が起こって、事実上の内戦状態が続いていて、とても観光で行くというような雰囲気でなかった。
 
内戦終了後の最近のスリランカの状況は、治安情勢好転と8つもの世界遺産を有する観光資源により、外国人観光客が急増して、ホテル建設ブームも起き、景気を押し上げる要因となっている。が、今まで、福祉や分配を重視する社会主義的な経済運営を続けてきたための財政面が脆弱になっているという。
財政赤字・公的債務残高の対GDP比率などを見ると、スリランカは、アジア諸国の中でもかなり高く、財政状態の悪さが目立つ。

国際通貨基金(IMF)によると、政府債務の18年予想額は11兆ルピー(約7兆6千億円)で、国内総生産(GDP)の77%に当たる。シリセナ政権誕生前から港湾、空港、道路の整備に借金を重ねた結果、今や1年の債務返済額(18年予想でGDPの14.1%)が歳入総額(同14.4%)と肩を並べる。債務の約半分が外貨建てで、通貨安は返済負担を膨らませる。(日経新聞電子版より)

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こんな中、前ラージャパクサ前大統領は、中国との関係を深め、中国の援助によって港湾や空港といったインフラ建設を約13億ドル(約1400億円)を投じて進めてきたが、赤字のたれ流しで、中国側が設定した最高6.3%の金利の高い負債を返済できず、施設の権益を譲り渡すという、中国の「一帯一路」の罠にハマってしまった。。
 
スリランカ政府は1712月、ハンバントタ港の運営権(99年間)を中国に正式に譲渡した。
アラビア海とインド洋の中間地点にあり、中国が国境紛争を抱えるインドの鼻先に位置する港だ。
 
中国の遠望なる画策が見える。

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さらに
「世界一寂しい国際空港」の運命は 「一帯一路」の負の遺産、スリランカがインドに支援要請 という記事が
201882日産経電子版ニュースに記載されていた。
 
スリランカ南部ハンバントタで中国の支援で建設された国際空港が経営難に陥り、政府が苦慮している。
建設費は2億1千万ドル(約234億円),9割が中国からの融資で賄われたとされ、工事も中国企業が請け負った。
そもそも需要がほとんどないが、元大統領の強権で地元に建設されることになり、1日の平均乗客は10人以下で定期便もゼロという有様だ。
中国の現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」が生み出した負の遺産ともいえ、スリランカ政府はインドに支援を求める方針を決めた。
 
インドも自分の鼻先ですでに中国に譲渡されたハンバントタ港とその近くの空港までが中国のものになることは強烈な脅威を感じるが、なにせどこかと違って民主主義国家、収益のないものへの投資に思い悩むようだ。

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マッタラ・ラジャパクサ国際空港は1日の平均乗客は10人以下の「世界で最も空っぽの空港」と呼ばれる


スリランカに行くにあたって、中国の「一帯一路」について色々調べたところ、その罠にハマってしまっている国々が他にも多くあることが分かった。
だが、内容は後述することにし、まずは楽しい話で、今回スリランカの観光で訪れる予定の場所で特に行きたいとおもい、気になったことを紹介します。
 
普段、お盆や正月休みのダイビングや観光は、高く、混むので殆ど出かけることがないのだが、今回この季節にスリランカに行くことを決めたのはキャンディ・ペラヘラ祭りを見たいがためである。
今年は816日~25日の開催で、後半ほど盛り上がるということなので、でこの時期に決めたのだ。
このペラヘラ祭りはスリランカ最大の祭りで、豪華な衣装に身を包み仏歯をのせた象が踊り子たちと練り歩くものだが、その電飾の豪華さは必見という。

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もちろんスリランカ観光のハイライトであるシギリヤロックも地形、歴史好きには興味津々である。

ジャングルの中に突然現れる高さの200mばかりの聳え立つ奇岩。
更に、その頂上には狂気の王カッサパ1世が5世紀に建てた豪華な宮殿跡があり、中腹には色鮮やかなフレスコ画「シギリヤ・レディー」と知られる女性像があるという。。当初は500体ともいわれたが、風化が進み現在は18体だけが残る。
その当時の豪華さを垣間見るためにも、自分の足で登れるうちにと今回のスリランカ行きを決めた理由でもある。

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                         「シギリアロック」と「シギリア・レディー」そして「象の足」              


 まだまだ素敵なところは一杯あります。なに世界遺産だけでも8つもあるので。


ペラヘラ祭りが行われるキャンディには仏陀の歯を祀った仏歯寺はスリランカ仏教の重要な聖地となっており一見の価値がある。

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貿易港として栄えたコロニアルな雰囲気な城塞都市ゴールにも行きます

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スリランカ最古の都市アヌラダプーラやダンプラ石窟寺院、そしてもちろんスリランカ名物の紅茶の産地スワラエリアにの訪れて色々試飲してみます。

 
宿泊予定のホテルも世界的リゾート「アマン」のデザインに大きな影響を与えたスリランカの建築家ジェフリー・パワが手がけたゴールのリゾートホテル「ジェットウイング・ライトハウス」

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更に、シギリアの広大な敷地に猿やリスも生息する自然を感じながら寛げるという「シナモンロッジ」にも宿泊する予定です。

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全行程9日間でまだまだ色々回ってくる予定だが、詳しい内容は帰ってきてから報告することにして、中国が提唱している「一帯一路」でスリランカをはじめ多くの国々できしみが出ているいるというのでインターネットで調査した内容を報告します。
 
まず「一帯一路」とは
 
中国国家主席の習近平が広域経済圏構想「一帯一路」を発表したのは13年9月 陸のシルクロード「一帯」と、海のシルクロード「一路」からなり、沿線の70カ国以上で、南太平洋や北極圏も含まれ、中南米も取り込もうとしている。

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インフラ整備を支援して中国企業の進出の足がかりとし、政治的・軍事的にも存在感を高め、豊富な資金力を背景に中国主導の国際秩序の構築を図る野心的な試みだ。

総投資額は約10年間で1.5兆ドル(約170兆円)以上に及ぶと予測されている。
 
国際秩序は従来、米国が主導してきましたが、中国が新たな秩序づくりを進める考えを示したものだ。
 




「一帯一路」計画とプロジェクト内容(日経新聞より)
 
凄い構想だが、もちろんその裏には中国の領土・権益拡大の野心が隠されている。
中国のこの手のプロジェクトのやり方は決まっている。

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強権政治家に取り入り、採算を度外視で高い融資比率で(金利も高く)計画を決定させ、実行段階では中国企業が受注し、作業者もすべて中国人を採用。
地元には大きな経済効果をもたらさず、計画が完了して、事業は大赤字で、膨大な債務と金利が重くのしかかる。
そして最後には中国は借金を棒引きすることで完了した施設や資源の権益を自分のものにしてしまうのだ。

 
「中国「一帯一路」が生む借金地獄 米機関が指摘する「高リスク」8カ国とは」
という記事(2018.5.13 付け 産経新聞)があった。
 
それによると
「援助を受けていたはずが、巨額の借金を抱えた上でインフラも奪われる-。中国が推し進める現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」が生み出す巨額債務への警戒感がここに来て急速に広がっている。」と記し
 

 
国際通貨基金(IMF)のラガルド専務理事は18412日北京で開催された「一帯一路」に関する会議の講演で、一帯一路について 「参加各国は、(中国によるインフラへの投資などを)フリーランチ(無料)と考えるべきではない」
IMFトップが一帯一路にともなうリスクを公に警告した。 と紹介している。

そして、巨額の債務による“代償”を背負う形となった代表例が、スリランカだと述べている(内容は冒頭で紹介)。
 
そんな中、米シンクタンク「世界開発センター」は今年3月、一帯一路参加各国の債務について済能力や債務の中国への依存度などについて、IMFのデータなどから検証した結果を報告している。
 
債務返済が困難となる恐れがある国は、ジブチ、キルギス、ラオス、モルディブ、モンゴル、モンテネグロ、タジキスタン、パキスタンの8カ国だ。
細かな債務内容が記載されているが要は
「対外債務がGDP8割…返済能力に疑義」
ということだ。
 
中国は特に強い海洋国家を意味する「海洋強国」への布石を着々と打っている。

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産油国の中東と中国大陸をむすぶシーレーン(海上交通路)上の要衝に港湾の利用権を相次いで獲得、将来は軍事転用する可能性が指摘される。大陸国家の中国には、エネルギーや物資を安定調達できる海路の確保が国家経営の優先課題の一つだ。海洋での勢力拡大はとどまらない。












中でも目立つのが、産油国の中東と中国を結ぶ海上交通路(シーレーン)の要衝だ。
 
「真珠の首飾り」。
米国防総省は中国がインド洋で展開するシーレーン戦略をこう名付けた。
ミャンマー、スリランカ、パキスタンなど中国が権益を握る港湾を線で結ぶと、インド亜大陸を取り囲むネックレスのように見えるためだ。中国はエネルギーや物資の安定調達が狙いと説明するが、インドは「制海権を奪おうとする試みではないか」と警戒する。

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だが、ここえ来て「一帯一路」陰りが見えているという。

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中国本体の方が米中貿易戦争で景気が減速し、外貨準備額も減少しておりおいそれと大型プロジェクトに投資する余裕がなくなりつつある。

又、融資を受ける方も、中国の強引なやり方と債務の大きさに二の足を踏んでおりプロジェクトの中止、延期を表明する国が多くなっている。






 
政権が代わったマレーシアではマハティール首相は東海岸とシンガポールへ鉄道建設の中止とマレーシア東部のボルネオ島とマレー半島で中国石油天然気集団系の企業が手がけるガスなど2本のパイプラインの建設も中止を通告した。

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トランプ米政権は激化する米中の「貿易戦争」を視野に、インド太平洋地域で米国主導の「自由で開かれた」経済圏の確立に向け、中国が進める「一帯一路」構想と対決していく姿勢を明確に打ち出した。

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そして、ポンペオ国務長官は、ASEAN各国との外相会議の席上、「米国は太平洋国家だ」と強調、 ポンペオ氏が先月設立を発表した、インド太平洋の成長支援のための地域ファンドは約1億1350万ドル(約127億円)は「一帯一路」の推進に向けたインフラ整備の融資を担うものであり、日本、オーストラリアも賛同し協力することを表明した。
 
 
南シナ海では中国に強く云うことが出来ず、島の埋め立て軍事化を既成事実化されてしまったが、「一帯一路」での資源の囲い込みや地域の隷属化など世界が連帯して防がなくてはいけない。
 
 
難しいことは後回しにして、明日から「世界で今一番行きたい国」スリランカに行ってきます。

1267日と二日間、山梨県の高原リゾートである清里高原に行ってきました。
 
清里高原は八ヶ岳南山麓、山梨県の最北端に広がる標高1000mの高原リゾートであり、南アルプスや富士山など3000m級の山々の眺望や渓谷などの大自然が満喫できるとともに、冬の澄み切った夜空に瞬く星々は「八ヶ岳スターダスト」と呼ばれるほど今にもこぼれ落ちてきそうなほど無数の輝きを放つ星々が見られることで広く知られている。

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              八ヶ岳の山々 インターネットより
 
今回の旅行の趣旨は初々しい冬化粧を纏った八ヶ岳と南アルプスの雄大でかつ厳しい山容と凛とそびえる美しい富士の姿を北の山梨側から、そして南の静岡からも眺め楽しむと共に小さな天文台を備える標高1450mの高みに位置する「清里高原ホテル」に宿泊して冬の満天の星を眺めながらゆったりとした高原リゾートのひと時を楽しもうとするものである。
 
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清里高原は、東京都の小河内ダム建設のため土地を追われた者や入植者たちによる開拓によって開かれた土地で、戦後は観光業振興の影響を受けて大きく発展した。
 
昭和50年代にいわゆる「清里ブーム」が起こり、首都圏から多くの観光客が訪れた。
観光客目当てのペンションやタレントショップその他の店舗が数多く建ちましたが、バブル崩壊によりブームが沈静化し、ブーム最盛期に作られた店舗の閉鎖が相次だ。
が、しかし、最近は新しい試みや新規出店も見られるという。
 
一時期熱に浮かされるようなブームはあったが、やはり、ここは夏季は避暑地として、冬季はスキーというリゾート目的で訪れる人や又、八ヶ岳への山登りに利用する人もおり根強く人気のある場所なのである。
 
 
私の清里との思い出は、5年前に心筋梗塞でなくなった兄が若い時は無類の山好きで、暇さえあれば割と近くであった丹沢の山々と時折遠征して八ヶ岳などに登っていた。
私は関西の企業に就職する前までは東京の実家に居たのでよく兄の山行につき合わされたことがあった。
 
特に兄が良く行った八ヶ岳は東京からは距離があるため私が引っ張り出されることが多かった。
というのは当時私は学生時代から中古車を買い通学などどこでも乗りまわしていたため、兄より都合の良い「アッシー」として利用されていたのだが、当時の清里は清里駅前に数点の店と少し離れたところに清泉寮がぽつんとあっただけで雄大な高原が一面に広がっていたと記憶している。
 
八ヶ岳好きが高じた兄はどこからか聞きつけて、「清里にいい土地の分譲がある見に行こう」ということで、金主方の母を連れてやはり私の車で出かけたことがあったが、その土地は今ではどのあたりなのか全く記憶していないが、駅からはそう遠くなかったと思うが、あまりにも何もなく、分譲面積も広く、高価でもあったためと、八ヶ岳に登るための拠点とすることを目論んでいた兄としては直ぐには利用できなと悟り、自然とお流れになってしまった。
 
それから十数年後「清里ブーム」がやってきて、駅前に色々奇を凝らした建物が立ち並び多くの人が押しかけるようになると、兄は「それ見ろ、あの時に買っていれば今頃は・・・」と良く言っていた。

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      私が学生時代から乗り回していたトヨペット・クラウンの同型車
       1500cc48馬力。当時としては高性能といわれたものだ
       観音開きのドアーに車体から水平に飛び出る機械式方向指示器
       そして極め付きはクランクシャフトによる起動
       バッテリーが弱く、エンジンを始動できないことが多くクランク
       シャフトで手動で始動するのだが中々難しく手を痛めるときもある
       一人で乗るときは坂道で下り方向に止めるのが鉄則であった
       東京と神戸で約5年間よく動いてくれた思い出の車だ
 
だが、バブルが崩壊しその当時趣を凝らした多くの建物は利用する客もなく、ひっそりと閉じられてしまったが、今は、開拓者がもたらした西洋風の牧歌的な雰囲気のなかに点在するプチホテル、カフェ、美術館など洗練された趣のある静かな高原リゾートなっているという。
 
バブルの頃の清里は知らないが、50年ほど前の良く行った清里と今日現在の清里がどのようになっているのかを知るのも今回の旅の目的でもある。
 
 
126日夕刻前、塩尻から観光バスで諏訪湖経由清里に入ったが、日曜日だというのに行き交う車も少なく、道を歩く人もおらず時折サイクリング車を見かけるぐらいだった。
 
駅前の道を北上すると両側が大きな樹木の林で時折、道から少し離れ、木々に囲まれた小奇麗なプチホテルやカフェなどを散見することが出来た。
道路沿いに出ることなく、奥まったところにあるため一見すると昔のままの雰囲気を残しており、他の有名観光地にある小さな売店の列や駐車場などを見ることなく、本当に静かな感じだ。
だが、今回は行くことが出来なかったが、清里駅より南エリアや小渕沢駅あたりが最近は大きく発展している様だが、清里駅より北側はあまり変わっていない様子なので昔の清里を知る人間としてはホットした。
 
 
さて、宿泊した「清里高原ホテル」は”ようこそ天空の楽園へ”を売り言葉として、標高1450mの高みに位置し、各室は富士山、南アルプスの山並みが見える様配置され、屋上には口径150mmの屈折望遠鏡を備えたドームを持ち、毎夜星空観察会を開催するなどしており、又食事は地元の有機野菜を中心としたメニューに太い秋田杉を使用した矢倉(櫓)と総檜で作られた情緒ある温泉露天風呂などを備えゆったりとしたリゾートライフが過ごせるよう考慮されているとのことだ。

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                       清里高原ホテルのロビーと宿泊した部屋
          暖炉の中で薪が燃えており高原のイメージだ
          客室は広く和室風な畳敷き部分もあり落ち着く

今回の私などのように、高原リゾートを楽しむだけでなく、名峰の稜線を境にして、漆黒の中に一段と輝く数多くの星に彩られる夜空を見るためにここを訪れる人が多いと聞く。
 
さて、肝心の夜空の星の観察はどうだったかというと、天文台に上ることは上ったが、全天厚く雲に覆われ全く星を見ることが出来なかった。
しかし、天文台の中で色々星の話や天文台の装置の説明を聞きまア楽しい時間を過ごすことが出来た。
 
だが、諦めきれずに翌早朝4時に起き、零下6度の屋外に出て星を見た人もおりました。
昨晩の厚い雲は嘘のように晴れ、夜空は本当に満天の星で素晴らしかったという。
執念は報われるということか。
 
私などはそこまで出来ず、朝食時間よりちょっと前にホテルの周りを散策したが、雲一つない澄み切った空に初雪を纏った雄大で豪快な八ヶ岳の峰々が目前にくっきりと見ることが出来たのは何よりであった。
ホテルからは遠く富士山や南アルプスの山々もはっきりと見え、清里高原の美しさを堪能することが出来た。

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          八ヶ岳の雄姿を背景に清里高原ホテルと
              八ヶ岳の見事な山々がくっきりと
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南側から見た八ヶ岳
 
さて、昨日のどんよりした天気と打って変わった快晴のもと見事な八ヶ岳の雄姿を見た後、二日目は観光バスにて一路南下して甲斐市、甲府市を経て河口湖、山中湖を見ながら御殿場へ出て新東名高速にのり新富士まで行き、そこからは新幹線で神戸に帰るルートであった。

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このルートは富士山の周りを北から、東、そして南から色々姿を変えて行く富士山を眺めようとするもので、終日快晴で、色々な場所から大変幸運雲にも一つないくっきりとした富士山の姿を見ることが出来大変楽しかった。
 
 
印象に残った富士の姿としては富士河口湖町と笛吹市とにまたがる御坂峠からの富士山だ。
古くから北斎や広重がここからの富士の姿を描いており、最近では太宰治の短編「富嶽百景」で「富士には、月見草がよく似合う」の名文句で有名になっている。
 
太宰治がこの峠の天下茶屋に長逗留していた時に毎日見た富士山を思い起こし、3778mの富士の山に立派に相対峙しみじんもゆるがずすくっと立つ月見草をほめているのだと思う。
 
しかし、太宰はここからの富士は「あまりにおあつらえむきの富士である」「まるで、風呂屋のペンキ画だ」などと評価してなかったという。
 
 
残念であるが、冬季は山梨側からは峠には入れず天下茶屋からの富士を見ることが出来なかったが、峠の見晴のいいところでバスを止めてもらってみた富士は確かに端正な正円錐形形で富士がドンと構えて見える。
太宰が言うあまりにも整い過ぎているというのも分からないでもない。
 
バスガイドに言わせると山梨県民はこの真三角形の端正な富士が静岡県側みた少し左右形が崩れ姿の富士より美しいと自負しているとのことだ。
 
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             御坂峠より見た端正な富士山

次の富士絶景ポイントは忍野八海だ。
忍野八海は山梨県忍野村にある8か所の湧泉群で、富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で、約20年の歳月をかけてろ過され、湧き出たものだ。
 
周辺の藁葺屋根と富士山を背景とした田園風景を売りとした比較的新しい観光ポイントである。
しかし、何故か凄い人混みだ。

隣の大国からの観光客が多く、彼らが我が物顔に狭い道いっぱいに歩く中、私は道端をすまなそうに通させてさせてもらった。
 
湧水池はそんなに大きなものでもなく、中にはかなり澱でおりごみや落ち葉など一杯浮いておりお世維持にも美しいとは思われず、また藁葺屋根も一般の民家の中に点在しているだけでかの国の人が大挙して押しかけるほどのものと思わないのだが、口コミなのかよくわからない事が多い。
 
ここから見る富士を忍野富士と言うらしいが、今までは遠くそして標高が高いところから富士を見てきたが、ここでの富士は裾野と同じ高さで距離もかなり近づいているため、見上げるような形になりその威容な大きさに驚かされた。

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            忍野八海から見た富士山 圧倒される
 
そして最後は新東名高速からの真南から見た富士だ。
確かに宝永大噴火による噴火口により富士の形が左右対称でない、が、こちらの方が過去の火山噴火歴史を物語、より火山らしくていいと思う。
 
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新東名高速より眺めた富士

色々ところを変え富士の姿を見てきたが、一日中快晴が続き、一度も富士の姿が雲に覆われることなくその雄姿を見れたことは凄い幸運なことと思うし、遠く古代の時代から日本人の心の中に富士の姿が棲みつき、事あることに富士山の美しい姿を見ると何か心が洗われる様で、やっぱり富士山はいいなと思い知ることになる。
 
 
今回はクラブツーリズム社の「一人リッチ」でちょっとテーマを持った旅という企画に参加したが、参加者全員が一人参加で、グリーン車を利用し、バスは大型バスに総勢15名、宿泊は一人/室で食事も豪華な趣を凝らしたもので、普通の団体旅行と少し違い煩わしさが少なく快適だた。
 
 
ここ数年昔若い時に良く行った場所を再び訪ねてみることをしているが、今後も全部人任せで簡単に行けるこのような企画にのって色々なところに行ってみようと思う。


あれ!越中八尾の祭りは「おわら風の盆」ではないのかと思うでしょう。
そうなんです。「おわら風の盆」が本家で正しいのです。
 
しかし、この本家というべき「おわら風の盆」は毎年91日~3日に行れるのですが、人口二万人強の八尾町に全国から延べ30万人もの観光客が押し寄せるという凄い人気のある祭りになっており、そのため、宿は超満員で町は期間中観光客で足の踏み場もないほどの混雑となるのだ。
それでも行こうと思うと1年ぐらい前から宿泊所を手配を開始しなければいけないという。
 
私のようにずぼらで、思い付きで行き先を決めてしまうような輩には大変敷居が高い場所なのです。
 
だが、分家というか「月見のおわら」は旅行会社のクラブツーリズムが主催する特別イベントで、「おわら風の盆」を混雑もなくゆったりと、祭りが醸し出す本来の情緒を感じることが出来るようにと特別に再現しようとするイベントで、今年で18回目になるという。

                 クラブツーリズムによる「月見のおわら」紹介動画

 
偶然、7月ごろ定期的のに送られてくるクラブツーリズムの広告雑誌「一人旅」とうものにこの「月見のおわら」の案内があったのだ。
ここの「一人旅」というのはどこの会社も同じなのかもしれないが、募集人数も少なく、グリーン席や大型バスの2席利用などゆったり乗れ、勿論宿泊は1人部屋で、かつあまり束縛感がないので時々利用させてもらっているのだが、
 
「おわら風の盆」にもともと興味があった上に、宣伝文句には”クラブツーリズム 特別貸切列車「サロンカーなにわ」で行く優雅な旅を・・・・”とあり、
更に「サロンカーなにわ」は「お召列車」として天皇・皇后がお使いになられる特別な車両で、フルリクライニングシートの座席や一流ホテルを思わせる展望車が、贅沢な列車の旅へと誘いますと。あった。

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              お召列車「ロマンスカーなにわ」の列車および車内風景

ちょうど8月の10月のダイビング行きの中間である9月の開催であったため即予約をしてしまった次第である。
 
この「月見のおわら」とういうのは、「おわら風の盆」を一堂に再現するものであるが、もともと八尾は、地区によって町の雰囲気も異なり、地元の地区で踊られる町流しも違いがあり、例えば、東新町の少女の衣装は赤いたすき掛けの田植え姿、かって花街であった鏡町は、艶やかな芸妓風の姿で踊る。
そのため、「おわら風の盆」では各地区に観光客が出向いてその踊りを見ることになるが、「月見のおわら」では踊り手の方が一堂に会してくれるため好みの踊りを見逃すこともないと評判がいいようだ。
 
しかし、各町の雰囲気と流しの踊りとが一体となって「おわら風の盆」の情緒が醸し出されるのであるから、一堂に会して躍るというのも好し悪しあるが、ものすごい数の観光客がぞろぞろと移動するのもあまり頂けなく、ズボラな私には似合っているのかもしれない。
 
 
二万人強の町に30万人もの観光客を集める「おわらの風の盆」とはどんなものか?
 
おわらの里・八尾町は富山県と岐阜県徒の県境に位置し、飛騨山脈と富山平野を結ぶ街道筋、井田川に沿うように町並みがつくられている。
街道の拠点にあった八尾は、かって「富山藩の御納戸」と称され、売薬や売薬用紙の販売、養蚕による収益などで栄え富山藩の財政を支えてきた町である。

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越中八尾の列車ルート図
 
Wikipediaによるとおわらの起源は、江戸時代の元禄期にさかのぼると伝えられ、町外に流出していた「町建御墨付文書」を町衆が取り戻したことを喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来するのだという。
 
しかし、喜びを起源とした祭りもいつしか、この土地の風土によるものか徐々に変質していって、今では現在の風の盆から感じるものは,静けさであり,優しさであり,そして,悲哀なのだ。
 
今の風の盆では越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露する。
艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが我々を魅了する。
 
風の盆の行事を行なっているのは、前述した東新町や鏡町などの10の旧町内とそれらの旧町内外から移り住んだ人たちからなる人達の新町の計11団体と保存会で構成されているが、その行事については各支部が自主的に行なっている。
 
おわらの踊りは
 
・町流しは、
 地方(じかた)の演奏とともに各町の踊り手たちがおわらを踊りながら
 町内を練り歩くものである。この町流しが、古来からのおわらの姿を伝
 えるものとされている。
・輪踊りは、
 地方を中心にして踊り手たちが輪を作って踊るものである。
・舞台踊りは、
 演舞場での競演会や各町に設置される特設ステージで見られる踊りで、
 旧踊りや新踊りを自在に組み込んで各町が独自の演技を披露する。
 
さらに、おわらの踊りは「旧踊り(豊年踊り)」と「新踊り」に大別される。
 
旧踊りの所作は農作業をしている所を表した踊りで、老若男女を問わず、誰にとっても楽しむことのできる踊りであり、風の盆開催中の輪踊りでは観光客が参加して踊ることもできる。
 
新踊りは昭和初期に日本舞踊家に新しく振付られたもので「男踊り(かかし踊り)」と「女踊り(四季踊り)」に分かれる。
男踊りの所作は農作業を表現しており、所作の振りを大きく、勇猛に躍り、女踊りの所作は蛍狩りを表現しており、艶っぽく、上品に踊るのが良いとされる。なお、この所作は八尾の各町内ごとにいろいろと改良工夫がなされており、おわら踊りの特徴の一つとなっている。

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越中八尾の「おわら風の盆」の踊りの様子 インターネットより
 
衣装も独特だ
 
踊り手の衣装のデザインや色は、各町によって異なるが、男性・女性ともに、編笠を深く被るのが特徴である。
このように顔を隠すようにして編笠を被るのは、かつて手ぬぐいで顔を隠して踊っていたことの名残りであるという。
 
男性の踊り手は黒の法被(半纏)に猿股、黒足袋姿、女性の踊り手と地方は浴衣に白足袋姿である。
なお、これらの衣装は木綿ではなく絹などのたいへん高価な素材で作られており、また、三味線と胡弓の皮は水気に弱いため、雨天の場合、おわら風の盆の諸行事は中止となる。
 
女性の踊り手が着て踊る浴衣は各町年齢によって色やデザインが違うが、胴まわりや袖の部分に、おわら節の歌詞が染め抜かれている(東町・鏡町は染められてない)。また、この浴衣にひと際目立つ黒帯は、「お太鼓」に結ばれており、艶やかで大人びた印象を与える。
なお、東町の女性の踊り手のみ、黒ではなく金銀の市松模様の帯を用いる。
また、諏訪町と東新町以外では、黒帯(および東町の金銀の帯)に赤い帯〆をするという。
 
各町で工夫を凝らした見事な衣装を見極めるのも楽しいものであるが、やはり、そろいの浴衣をまとい、編笠から顔を覗かしながら踊る妖艶な女踊りには一見の価値がある。

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            同じくおわらの風の盆の妖艶な女踊り インターネットより
 
今では30万人もの観光客が押し寄せる全国的に名を馳せる一大イベントとなったが、私がこの「おわらの風の盆」を知ったのは40年以上前の五木寛之氏の小説だった。
 
五木寛之氏の初期の作品は朝鮮から引き揚げて福岡、東京、金沢と移り住んだ経歴からか、故郷や祖国から切り離された人々の故郷や祖国に対する哀感の想いを滲ませるデラシネの思想の小説が多く、海外旅行などまだまだ一般的でなかった中で私は五木氏の小説に一辺に魅了されてしまった。
 
「さらばモスクワ愚連隊」「蒼ざめた馬を見よ」「青年は荒野をめざす」「恋歌」「ソフィアの秋」「内灘夫人」「朱鷺の墓」・・・・などあげたらきりがない。
最近では「親鸞」に至る氏の小説は殆ど購入して読み耽ったものだ。
 
その中で
1972年に「鳩を撃つ」の短編集の中に八尾の風の盆を背景に描いた「風の柩」が所収されているのだ。
 
テレビマンである主人公の中年の三上と、八尾出身の若き演劇研究生であった理絵との悲恋を描たものだが、理絵の父が歌う越中おわら節が大変美しく八尾の人たちの尊敬を集めるものであったのに、その裏では父は戦争で大変な事を犯していたという事実が隠れているという設定だが、五木氏は哀調を帯びた胡弓の音で奏でられる盆歌の調べとこれに同調する盆踊りを切々に描いてる。
 
五木氏が小説の中で人情味そして哀切に豊かに描いた背景・ロシア、北欧、東欧そしてトルコなどなど、本当に自分で行って小説の舞台になったところを見てみたいと誘発された場所はいくつもあるが、今だ行けてない場所も多い。
 
八尾もそんな中の一つだ。
 


八尾の風の盆人気に火を付けたのが

高橋治氏の「風の盆恋歌」(1985年初版)だろう。
 

「もう一度私を風の盆に連れて行ってください。
死んでもいい。不倫という名の本当の愛を知った今は・・・・。」


ぼんぼりに灯がともり、胡弓の音が流れるとき、風の盆の夜がふける。
越中おわらの祭の夜に、死の予感にふるえつつ忍び逢う一組の男女。互いに心を通わせながら、離ればなれに20年の歳月を生きた男と女がたどる、あやうい恋の旅路を、金沢、パリ、八尾、白峰を舞台に美しく描き出す、直木賞受賞作家の長編恋愛小説だがこれがロングセラーとなった。
 
さらに、石川さゆりさんが歌う「風の盆恋歌」(1989年発売、1989年紅白歌合戦で歌う)が大ヒットし「おわら風の盆」の名声を不動のものにした。

石川さゆりさんが熱唱する「風の盆恋歌」

五木寛之氏の「風の柩」で八尾の「おわらの風の盆」に魅せられ是非行きたいと思いつつ、高橋治氏の「風の盆恋歌」、石川さゆりさんの「風の盆恋歌」でブレークしてしまって行き難くなってしまった「おわらの風の盆」だが、分家というか再現というか本来の「おわらの風の盆」とはチョット違うが、今回「月見のおわら」に行くことが出来て40数年間の思いが果たされて嬉しい限りだ。
 
 

ゆっくりと初秋の一夜を、哀しい胡弓の調べを聞きながら遠き若き頃の楽しくも、苦い想いなどにひたるのもまたいいかもしれない。


尚、展示写真はインターネットより拝借しました。
ありがとうございます。



先週、蔵王温泉・松島・中尊寺・銀山温泉など二泊三日の小旅行に行ってきました。
 
最近、海外ダイビングの合間をぬって若い時に訪れた場所を再び巡る旅をしています。
 
2011年秋 北陸金沢周遊。
2012年秋 四国松山・道後温泉。
2013年夏 信州白馬・五竜・栂池・八方尾根。
     秋 比叡延暦寺・滋賀琵琶湖周遊。
     冬 奥能登周遊。
2014年夏 上高地・乗鞍・穂高北アルプス。
     秋 大山・出雲山陰周遊。
     秋 北九州・九年庵等古刹巡り
そして2015年、今回の蔵王・中尊寺・・の旅行だ。
 
いずれも若い時に何度か訪れている場所ばかりだが、若い時の訪問は観光が目的というよりか、スキーとかドライブで友人達と訪れたということが殆どで、気が付かずに素通りしている場所とか、予備知識もあまりなかったためか印象に残ってない場所も多かった。
 
最近の旅は観光が目的で、現地では観光バスによる周遊であるためバスガイドが事細かく説明してくれ、又、何か疑問があれば即スマホで検索して知識を仕入れる事も出来、さらに年をとってそれなりの知識も増えていることもあるためか、若い時に見たものでも歴史などの背景などを知って見てみると何か新鮮な感じがして興味深いものだ。
 
勿論、長い月日が経ち風景も建物も変わっていることも多いのだが、年をとってから若い時に訪れた場所を再び巡ることは、なにか新しい発見があるとワクワクするし、又今日までの人生の一齣一齣を思い起す切っ掛けを与えてくれて、大変有意義なものである。
 
 
さて、今回の旅の工程は
 
第一日
伊丹空港JAL便→仙台空港→観光バスで塩釜経由松島→松島湾内遊覧→蔵王温泉泊
 
第二日目
蔵王温泉(観光バスにて)→平泉・中尊寺・金色堂→銀山温泉→蔵王温泉泊
 
第三日目
蔵王温泉(ロープウェイにて)→地蔵山頂駅(1661m)→蔵王温泉→山形空港JAL便→伊丹空港
 
という工程だ。

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    神戸からの工程行マップ
写真をクリックするとより詳細なルートが表示されます
 (Googl Earth がinstallされている時)

今回の旅の謳い文句は「乳白色の名湯といわれる蔵王温泉の連泊」と、「日本三景の一つ松島の遊覧」、そして「世界遺産の平泉・中尊寺金色堂見学」、「大正の雰囲気を残す銀山温泉見学」そして「蔵王の広大な樹氷原大パノラマの一望」だ。
 
 
工程に従って感想など述べる


今回の旅行の最初の観光地である「松島」は天橋立、宮島とともに海の青と松の緑が対象の妙をなす美しさで江戸時代から日本三景と呼ばれて来たところであるが、私の印象では、「あれ!これだけ」というような印象であった。
 
昔来たときはもっと奥深く、神秘的な印象であったが、今回の湾内周遊は、震災の影響もあるのかもしれないが、各島々の松の木も少なめで元気なく、ただ少し異形な形の島々を巡っていつの間にか終わってしまったという感じで、”感動的な美しさ”には程遠かった。
 
松島はその美しさゆえに芭蕉初め多くの風流人に愛されたというが、どうも私は年とともに趣向も変わり、がさつになって松島の美しさが理解できなくなってしまったのかもしれない。

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  上)上空からの松島(インターネットより)
  下左)鐘島:四つの同門が同時に明けて見えるのは一か所のみ
  下右)仁王島:中間の凝灰岩が甚だしく浸食され、あたかも仁王の像みたい

松島の観光後早めに蔵王温泉の宿泊ホテルに到着してゆっくり温泉を楽しんだ。
宿泊ホテルは蔵王スキー場ゲレンデの直ぐ近くでスキーヤーに便利なホテルだ。
 
私がスキーを楽しんでいた60年頃は日本のスキー全盛時代でスキー列車は超満員で床は勿論、網棚にも寝る人がおるほどで、スキーリフトは3時間、4時間待ちはざらであった。
 
そんな人気の切っ掛けを作ったのが1956年の冬季オリンピックで初のアルペンスキー3冠王(滑走・大回転・回転)となったトニーザイラーで、彼は 22歳の若さで引退して、その後俳優に転身し、映画「黒い稲妻」「白銀は招くよ!」で主演を演じるなどし、この蔵王にも日本映画「銀嶺の王者」のロケーションで、蔵王温泉に1ヶ月以上滞在し、スキーや蔵王の魅力を広めてくれた。
 
今でも、映画の中で、甘いマスクの彼が蔵王の樹氷の中を颯爽と優雅に滑る姿をはっきりと思い起こせる。
 
そんなことで、蔵王スキー場はスキーで何度か訪れた思い出の場所であるが、当時と比べると何か寂しい。
 
平日でシーズン後半ということなのか、ゲレンデは疎らで、勿論リフト待ちの人もおらず、私が記憶する、大音響で音楽を流してスキヤーで埋め尽くされた喧騒としたゲレンデとは全く異次元の世界であった。
 
時折、家族連れで父親が子供達に装具の付け方やそのチェックなどして、ゆっくり滑って行くのを見ると、ただガンガンと滑りまくった私たちのスキーと大きくスキースタイルが大きく違っているが、なんだか今の方がのんびりしていて今様で良いように思える。
 
だが、温泉は何も変わっていなかった。
 
大自然に囲まれて、かけ流しの乳白色で強い硫黄臭が漂うた野趣豊かな露天風呂に入ると本当に寛げるし、これぞ温泉という感じだ。
何十年、何百年とこんこんと湧き出でる湯に浸かっていると40年も前に来たことが本の一瞬で、悠々とした時代の流れを感じさせる一時だた。
 
だが、今回利用したホテルは山形で広くホテルを運営している「タカミヤホテルグループ」のもので、建築家・故丹下健三氏が手がけた設計と、工業デザイナー・奥山清行氏による家具のコーディネイトが売り物の近代的なホテルで、昔私などが利用していた安宿とは大きな違いだ。
 
デザイナーの奥山氏はイタリアピニンファリーナ社デザインディレクターを経て各種の工業品デザインを手掛けているが、最近では北陸新幹線の車両デザインを監修されたことで有名な人だ。
 
やはりここにも時代の流れが感じられる。

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たかみや 瑠璃倶楽リゾート(HPより)
上)ホテル外観 下)ロビーの家具類
 
 
二日目は平泉・中尊寺。
 
12世紀の初め奥州藤原氏初代清衡公が前九年の役で父経清や祖父などの阿倍一族の死、後三年の役で妻子の死、義弟家衡など清原一族の死を見てきて、合戦でなくなった命を平等に供養し、仏国土(浄土)を建設するために大伽藍を造営したのが始まりだ。
 
藤原氏は、金の産地である利点や馬や毛皮などの様々な物資を商いし、海外との交易も行い栄ていった。
当時の平泉の人口が10万人といわれ、現在は1万ほどであることを考えるといかに栄華を極めたか推測できる。
 
藤原氏三代は

初代 藤原清衡(キヨヒラ) 長治2年(1105)中尊寺一山の造営に着手。
二代 藤原基衡(モトヒラ) 大伽藍毛越寺を建立。

                死亡年代は保元2年(1157)
三代 藤原秀衡(ヒデヒラ) 源義経を少年時代と都落ちの際の二度に

                わたり庇護する。

あの義経・弁慶が一時の安息を求めた地として有名だが秀衡が文治3年(1187)病で急逝して、大きく運命が変わってしまった。

 
ここでの見学はやはり金色堂だ。
 

金色堂は天治元年(1124)に造立で、現存する唯一の創建遺構であるという。
堂すべてが金で覆われていて、内部は金色に輝く阿弥陀堂の四本の巻き柱や須弥檀(仏壇)などには夜光貝で細工された螺鈿(らでん)などがほどこされて美しく
輝いている。


中央の須弥檀の中には清衡公、向かって左の檀に二代基衡公、右には三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公の首級が納められているという。

 
この金色堂は大きな覆堂に囲われていて雨風から守られているのだが、その分暗く屋根とか床は金色には見えなかった。
がしかし、聞けば聞くほど、見れば見るほど内陣の螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や緻密な彫金などに最高の平安仏教美術を築き上げた職人達の粋と拘りを感じさせられた。
 
最近20129月に、東芝が東日本大震災からの復興支援活動の一環として、中尊寺に、LED照明設備と太陽光発電システムを寄贈したのだが、その光あてられた金色堂の写真は本当にすべてが荘厳に金色に輝く息をのむ様な美しさである。
 
だが、私が見学した時は覆堂の中は薄暗く、金色堂全体は黒く、中央部のみに薄く光が当てられ、写真で見るほどの荘厳さは感じられなかった。
 
折角の寄贈された照明装置だが、出し惜しみされた様な感じで残念であった。どんな時に使用するのか聞いてみたいものだ。

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              中尊寺の金色堂
     上左)覆堂の外観 この中に金色堂が収まっている
     上右)LED照明で金色に輝く金色堂
     下左)中央部の須弥壇 螺鈿細工や蒔絵の緻密な細工が見事
         この中に藤原4代の遺納められている
     下右)須弥壇のクジャクの彫金 見事な緻密な細工は職人拘りだ


中尊寺の後は銀山温泉街の散策だ。
 
銀山温泉は銀山川の両岸に大正から昭和初期にかけての建築の旅館が立ち並び、多くの旅館は、建築された当時としては非常にモダンな三層四層の木造バルコニー建築であり、外装には鏝絵が施されている。
川には橋が多くかかり、また歩道にはガス灯が並んでいる。
 
この温泉街の下流側から眺めた景色が大正ロマン漂う光景として色々な広告に使われ我々に馴染み深いものになっている。
 
 
訪れた時は午後少し遅くだが、宿の部屋の明かりや街灯などは点灯されず、薄暗さが目立ち始めた中途半端な時間であったが、川を挟んだ両側の歩道には時折大正時代風の和服を装ったカップルやこの温泉街の特徴ある浴衣を着た宿泊者がそぞろ歩く姿は背景の大正風の旅館によくマッチして、一昔か、二昔にタイムスリップした感じがして趣があった。

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     銀山温泉の街並み 大正風の旅館がしっかり残されている
     職人が鏝で描いた鏝画も見事だ
 
何故か、中尊寺も銀山温泉も観光客が少なく、ゆっくりと中尊寺の広大境内を巡り、ぶらぶらと銀山温泉のきれいな鏝絵を見、お土産屋さんを覗きながらの優雅な散策を楽しむことが出来た。
 
 
銀山温泉の後は、再び蔵王温泉に戻り、かけ流しの乳白色の温泉と山形の郷土料理を満喫させてもらった。
 
 
三日目はロープウェイを利用しての広大な樹氷原のパノラマ見学だ。
 
樹氷(ice monster)は、東北地方の奥羽山脈の一部の山域(八甲田山、八幡平、蔵王連峰、吾妻山)の亜高山地帯にしか確認されず、特殊な条件下で出来るとのこと。
 
まず、
「アオモリトドマツ」などの着氷と着雪の起こりやすい常緑針葉樹が自生していること。(ブナなどの落葉広葉樹では氷や雪がつきにくい。)
 
積雪が適量であること。
(雪が多すぎると、「アオモリトドマツ」は埋没してしまい、少なければ、当然樹氷はできない。
 
そして温度がゼロ以下となる。
 
樹氷のサイクル樹氷は、「アオモリトドマツ」に雪雲のなかの「過冷却水滴」が枝や葉にぶつかり凍りつく→着氷のすき間に多くの雪がとり込まれる→0℃付近の雪は、互いにくっついて固く絞まる

という現象が繰り返され、風上に向かって成長したものを樹氷と呼ぶ。
 
蔵王の樹氷は地蔵山(標高1736m)の頂部付近の広大な範囲に群生していることで有名であるのだが、今では二つのロープウェイ(山麓線、山頂線)経由して蔵王山麓駅(標高855m)から地蔵山頂駅(標高1661m)へ簡単に行けるのだ。
 
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           日本有数の規模を誇る蔵王スキー場

前日の夜からのかなり激しい雨で山頂まで行けるかどうか心配したが、一夜明けると雨も止み時々明るい日射しも差し込む無風の絶好の天気であった。
 
早速ロープウェイに乗りこんだが、乗客は我々ツアー客と2,3のスキーやスノーボードを抱えたスキーヤーが居るだけだ。
本当にスキーをする人が少なくなってしまったのであろうか?
私がスキーに熱中してた時期とは全く隔世の感だ。
 
山頂付近に近づくと、降り積もった真っ白な雪原一面に大きな樹氷が至る所に林立しているのが一望できる。
皆形はもっこりしているがよく見ると千差万別な形で面白い。
 
地蔵山頂駅周辺にも歩いて行ける範囲で大きな樹氷が多数みられ、その形と大きさは雪原に立つ仁王のようにも見られ、”ice monster” といわれる所以がよくわかる。
 
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   上)快晴時の見事な樹氷(インターネットによる)
   下左、右)地蔵山頂駅付近の樹氷 昨日の雨で形が崩れ始めている

時折次のロープウェイで到着した45人のスキヤー達が樹氷の間を縫うように急斜面を滑降して行った。
ロープウェイで簡単に頂上に上れて、こんな広大な雪原を独り占め出来るようなスキーが楽しめるのならばもっと多くの人がもっと来てもいいのにと思うのだが・・・。
 
これも、平日であるからかもしれないが、これならもう一度スキーをしてもいいなと思うが、弱体化してしまった体力に叶わぬ夢とすぐに現実に引き戻されてしまうが、一人純白の雪原を雪煙を上げながら滑降する自分を夢想する楽しい時間が出来ただけでも今回の旅行の大きな収穫だ。
 
山の天気は変わりやすく、頂上で樹氷を見ている間に麓から霧が湧き上がり、ロープウェイで下山する頃にはあっという間に一面真っ白な世界になってしまった。
 
真っ青な空と真っ白な雪原。そしてそこに林立する巨大な樹氷群が見れたのはほんの30分ぐらいだったが、美しい景色を見て若き元気なころを夢馳せるには十分な時間であった。
 
ロープウェイで下山後、蔵王温泉のホテルで昼食をとり、山形空港から伊丹へ、途中は旅の疲れからか、ほとんど快い居眠りの時間を過ごしながら、ユッタリと夕刻前には帰宅することが出来ました。
 
二泊三日の短い旅でしたが、若い時に訪れたところに年取って再び行って、その時の若い時の気持ちに戻るには時間の長さは関係ないのだと改めて認識し、今後も頻繁にこのような小旅行を計画し、実行しようと思った。

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