My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

タグ:絵画

 
すこし前になるが、原田マハ著「暗幕のゲルニカ」を読みました。
 
原田マハ氏は私の好きな作家の一人で、作家になる前に馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍時、ニューヨーク近代美術館に派遣され同館にて勤務の経験から西洋絵画、画家を主題にした本作品や「リーチ先生」、「ジヴェルニーの食卓」「デトロイト美術館の奇跡」「太陽の棘」「サロメ」「たゆたえども沈まず」などが美術ミステリーの作品多くあるが、デビュー作が「カフーを待ちわびて」の恋愛小説で日本ラブストーリー大賞を受賞し、他に「本日は、お日柄もよく」「総理の夫」などのコミカルなラブストリーも多々描いている。
 

今回の「暗幕のゲルニカ」は第155回直木賞候補であったが、荻原浩氏の「海の見える理髪店」に負けてしまった。

(本作品読書後直木賞の選評の概要を見てみると、どうも女性作家の評が厳しかった感じであったが、海の見える理髪店」を読んでおらず、好きな作家への身びいきと言われてしまえばそのとおりかもしれませんが・・・)

 

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     左が原田マハの「・・・・ゲルニカ」右が直木賞入受賞した荻原浩の「海の・・・」

本作品は「BOOK」データベースよると、
「ニューヨーク、国連本部。
イラク攻撃を宣言する米国務長官の背後から、「ゲルニカ」のタペストリーが消えた。
MoMA(ニューヨーク近代美術館)のキュレーター八神瑶子はピカソの名画を巡る陰謀に巻き込まれていく。
故国スペイン内戦下に創造した衝撃作に、世紀の画家は何を託したか。
ピカソの恋人で写真家のドラ・マールが生きた過去と、瑶子が生きる現代との交錯の中で辿り着く一つの真実。怒涛のアートサスペンス!
とある。
 
まさに怒涛のアートサスペンスであり、一気読みしてしまった。
 
本書はパブロ・ピカソの描いた「ゲルニカ」を軸に話が進むのだが、過去と現在のパートに分かれ、ピカソの恋人で写真家のドラ・マールが見てきたピカソという芸術家とゲルニカ制作の過程を示す過去パート。
そしてアートの力で平和を訴えようとピカソの「ゲルニカ」を再びMoMAに展示しようとする企画に奮闘するキュレーター八神瑶子が多々の苦難と陰謀に巻き込まれていく現在パートから構成されている。
 
 
ここでピカソの「ゲルニカ」について記述すると、
私が初めて「ゲルニカ」を等寸大で観たのは23年も前(1995年)の京都近代美術館の”愛と苦悩一「ゲルニカ」への道”というピカソ展でした。
「ゲルニカ」は門外不出の作品なので写真複製だったのですが、350cm×780cmの大きさにまず驚くき、そしてモノクロ作品にもかかわらず描写されている動物や人物の苦悩の表情が脳裏に鮮明に焼き付けられたことを記憶しています。
 

「ゲルニカ」はスペインの画家パブロ・ピカソスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。

ドイツ空軍コンドル軍団によってビスカヤ県ゲルニカ(スペイン、バスク地方の最古の町、文化と伝統の中心)が受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。

20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。(Wikipediaによる)


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       ピカソの「ゲルニカ」 スペイン内戦中のドイツ軍の悲惨なゲルニカの空爆を描いた  


ピカソは5月に開催されるパリ万博のスペイン館のパビリオンに飾る絵を書いて欲しいと依頼されるが、中々テーマが決まらない中で、1937426日のゲルニカ爆撃で町は廃墟となり、多くの死体が散乱するという、人類史上類を見ない暴挙が新聞に掲載され、ピカソはその光景を目の当たりにし、怒りと悲しみを覚え負の感情が爆発し、ただならぬ雰囲気で絵を描き上げる事になったという。
 
この「ゲルニカ」の制作の一部始終をカメラに収めていたのがピカソの愛人であり写真家のドラ・マールである。
ドラは撮影しながら画面を支配する阿鼻叫喚する人間や動物たちを見て、この絵のタイトルは「ゲルニカ」以外にありえないと感じ、ピカソもそれを受け入れ、世紀の名画の名前が決まったという。

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    左:ピカソとドラ・マール 右:ドラ・マール 写真家でスペイン語が堪能でピカソの愛人となった

しかし、「ゲルニカ」はスペイン館のパビリオンに飾られた当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられることになった。

 
さて、本書の内容についてもう少しのべると

 

過去のパートの物語は、19374月、パリのピカソのアトリエ兼住居で幕を開ける。
ピカソは内戦のさなかにあるスペイン共和国政府の依頼を受け、この年の5月に開幕するパリ万国博覧会のスペイン館のために、壁を埋めつくすほど巨大な新作を描くことになっていたが、肝心の絵のテーマが思いつかず大きなキャンバスは白紙のままだった。
そして、その朝の新聞には「ゲルニカ 空爆される/スペイン内戦始まって以来 もっとも悲惨な爆撃――」。
この新聞報道が「ゲルニカ」の始まりだった。

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左 ゲルニカの地図、右ドイツ軍の1937年4月26日爆弾と焼夷弾の無差別空爆で破壊された

小説の過去のパートはピカソの若い愛人で写真家のドラ・マールの視点で書かれ、悲惨なゲルニカ空爆の新聞に
触発されたピカソは後で「ゲルニカ」名付けられる大作を426日から66日の間にかきあげた。
この制作過程の写真を撮影し、後世に貴重な記録を残す彼女の目から、〈ゲルニカ〉誕生のドラマとその後の数奇な運命が描かれてゆく。
ドラ・マールは「泣く女」など多くの名画のモデルをつとめたことでも知られる。


現在のパートは2001911日のニューヨークに飛ぶ。

現在のパートの視点は、日本出身のピカソ研究者、八神瑤子。
35歳でニューヨーク近代美術館(MoMA)に採用され花形部門である絵画・彫刻部門でアジア人初のキュレーターとなった。
愛する夫、イーサンはアート・コンサルタント。
だが、幸福な結婚生活は、ワールド・トレード・センターを襲った二機の旅客機により、とつぜん断ち切られる……。
そして、現代のパートの物語はアメリカの同時多発テロ後の2003年、アートの力で平和を訴えようと考え、「ゲルニカ」を再びニュヨークで展示しようと奮闘するMoMAのキューレーター八神瑤子の行動だ。


ゲルニカ空爆と911テロ、二つの大きな悲劇が対置され、ピカソの〈ゲルニカ〉が第二次大戦とイラク戦争をつなぐ。

題名の“暗幕のゲルニカ”とは、ニューヨークの国連本部、国連安全保障理事会の入口に飾られている「ゲルニカ」のタペストリーのことで、20032月コリン・パウエル米国務長官がイラク空爆を示唆する演説を国連安全保障理事会の入り口で行った際、彼の背景に見えるはずのくだんの〈ゲルニカ〉は、なぜか暗幕で隠されていた。


この史実に著者は衝撃を受ける。

「ゲルニカ」は空爆によって阿鼻叫喚の地獄となった事態を象徴するもの。アメリカがこれから実行しようとするイラク攻撃によって、イラク国内で同じ様な事態が起きることを予想した人物が隠したのでないかと直感したからである。

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         国連本部の入り口にかけられていたタペストリーの「ゲルニカ」色彩がある。
         同じタペストリの「ゲルニカ」があと2つあり、一つは日本の群馬県の高崎にある
 
この事実を下敷きに、著者は空想の翼を広げ、大胆不敵な物語を紡ぐ。
実在の人物が実名で登場する過去のパートと違って、現代のパートでは、米国大統領や国務長官も架空の名前に置き換えられ、小説は虚実入り混じったストリー展開は、果たしてどこまでが史実でどこからが創作か、読者の想像力を大いに刺激する。
 
後半の焦点は、瑤子が企画する「ピカソの戦争」展と「ゲルニカ」をめぐる策謀。物語はクライマックスに向かって壮大な美術ドラマが展開する。
驚愕のラストまで目が離せない。
 
様々な困難を乗り越え、ついに明日「ピカソの戦争」が開催されようとしていました。
門外不出の「ゲルニカ」は本当に海を渡るのか、一体今どこにあるのか、全米が注目する中、瑤子は記者会見のスピーチを始める。

 
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話がチョットはずれるが著者の言葉遣い特にスピーチの言葉には感動させられる。
著者の本で「本日は、お日柄もよく」ではスピーチライターになろうと決心した若い女性が幻のスピーチライターと言われる人に指導を仰ぐことになるのが、文中に出てくるスピーチの数々が本当に素晴らしく感動する内容で、スピーチというのはこうゆうものだと強く感じた。
 
本書の瑤子のスピーチも素晴らしく、ハラハラ、ドキドキ、涙を誘い、そして最後のクライマックへと突入する・・・。
 
 




原田マハ著「本日は、お日柄もよく」

最後に著者が本書を発刊するにあたってのインタビュで述べた話を紹介します。
 
「一枚の絵が、戦争を止める。私は信じる、絵画の力を。
実際は、美術が戦争を直接止められることはないかもしれません。それは小説も同じでしょう。けれど「止められるかもしれない」と思い続けることが大事なんです。人が傷ついたりおびえたりしている時に、力ではなく違う方法でそれに抗うことができる。どんな形でもクリエイターが発信していくことをやめない限り、それがメッセージになり、人の心に火を灯す。そんな世界を、私はずっと希求しています。」
 
 
やはり、原田マハ氏の作品は益々好きになる。美術とサスペンスが融合されたストーリだけでなく、コミカルな恋愛小説も軽快で嫌味がなく楽しめる。
 
特に、本書の過去のパートの主人公のドラ・マールをピカソはモデルとて色々な作品を描いているが、中でも「ゲルニカ」を描い終わった後に、その勢いで100枚近くの「泣く女」制作している。
ドラ・マールは感情の起伏が激しく、よく泣く女性だったとか、ピカソは女性の涙にゲルニカの悲劇を表し祖国の惨事を悲しんだのかもしれない。

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       左はドラ・マールがモデルの「泣く女」 右は同じドラがモデルの「ドラ・マールと猫」
       右の画はピカソが大切にしていたもので現在個人所有で世界で一番高い絵と言われ100億円とか・・

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                メルボルン ビクトリア美術館所蔵のピカソの「泣く女」

メルボルンのビクトリ美術館にはこのピカソの「泣く女」の1枚が常設されているのだ。
今度メルボルに行くが、是非この画を見てピカソがどんな気持ちで「泣く女」を100枚も描いたのか、女性の涙は何を意味しているのか、じっくりと「暗幕のゲルニカ」を思い起こしながら観察してみようと思う

先日(65,6日)一泊止まりで東京へ美術館巡りに行って来ました。


611日には終了してしまう上野の国立科学博物館「大英自然史博物館展」をどうしても見たいとずーと気にかけていたが、仲々チャンスがなくやっと雑業の合間を縫って実現したのだ。

 

どうせ行くなら、やはり興味あった東京都美術館「ブリューゲル「バブルの塔」展」も行こうと上野に宿を取り一泊二日の美術館巡りツアーとなったのだが・・・。


 「大英自然史博物館展」は通常月曜日は休館日だが、611日に終了するということで6月からは毎日開館しており、5日の月曜日は狙い目で、午後1時頃入館したのだがガラガラで閉館時間近くまでゆっくり鑑賞できた。


 

「ブリューゲル「バブルの塔」展」の方はそうはうまく行かず、朝9時半の開館に、9時頃行ったのだが既に長い行列が出来ており、館内は展示品の壁沿いに長い行列となり、列から出入りが出来ず、自然と意図としない間に出口に来てしまい、12時頃には退館させられてしまったという感じだった。


 


しかし、目玉である「バブルの塔」は広い専用なコーナーを設け、壁一面に拡大図を掲げ多くの人が集まっても見やすいようにとの工夫はされていた。


 


さて、帰りは夕刻のフライトなので空いた時間に森アーツセンターギャラリーの「大エルミタージュ美術館展」に行くことにした。


10月に神戸でも開催予定なので、混んでいても神戸に来た時の下調べと気楽な気持ちで行くことにした。


ということで、一泊二日の東京美術館、3館を巡る、駆け足の強行軍であったが、これらの中心的な展示品やチョット気になった物などを紹介してみたいと思う。


 

まず、


国立科学博物館の「大英自然史博物館展」


  ・入館料 1,600円 音声案内 520円 展示図録 2,000


この博物館展のパンフレットを拾い読みすると


8000万点を誇る大英自然史博物館の世界最大級のコレクションをから厳選された至宝を一挙公開!」とある。


又、本展では「始祖鳥」を初めに、自然史に名を残す同館の至宝約370点を選りすぐり一堂に展示するもので、ロンドンで常設展示されるものはわずか17点。


本展は同館初の海外巡回展かつその最初の会場に選ばれたのが、ここ日本の国立科学博物館で、出品される展示物は動植物、化石、鉱物など多岐にわたり、すべて日本初公開だという。


要するに大変貴重なもので、ロンドンに行っても見れないものが殆どだから「見なきゃ損」ということなのだ。

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何と言っても今回の目玉は「始祖鳥」だ。


「始祖鳥」とは、恐竜と鳥類の特徴を併せ持ち、両者が進化的につながっていた事を示す、最古の鳥類の化石と言われている者だ。


鳥類の羽毛(最近は羽毛のある恐竜の化石が派遣されている)があり、嘴には歯があり、鉤爪がある。


又、頭部を3次元で復元して、始祖鳥が飛行に必要な視力や平衡感覚、運動神経を持っていたと推定されている。


 

今回のものは「ロンドン標本」と言われるもので、ドイツのジュラ紀後期(約15000万年前)の地層から1861年に見つかったものだ。


この化石が発見された時期は、1859年にチャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版した(ダーウィンの直筆原稿も今回展示されている)しており、当時、宗教界を巻き込んで「進化」という考え方をめぐり、大激論が交わされていたときであり、この化石には爬虫類と鳥類の両方の特徴があり、まさに、“進化のミッシングリンク”を埋める存在と見られたのだ。


 さて、これほどまでに重要な始祖鳥化石が発見地のドイツでなくイギリスの博物館に所蔵されているのだろうか?

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何故か、現在大英博物館の至宝として展示されてる、エルギン・マーブルを思い起こす。


エルギン・マーブルは古代ギリシア・アテナイのパルテノン神殿を飾った諸彫刻で19世紀初めにイギリスの外交官がパルテノン神殿から強引に削り取ってイギリスに持ち帰って、後に大英博物館に寄贈されたもので、1970年代、ギリシャの返還要請返還要求を強めた(その先頭に立った文化・科学相のメリナ・メルクーリは、映画女優としても有名である)が、しかしながら、両国の見解はすれ違ったままということで現在に至っている。


 

しかし、今回のケースは当時ドイツの研究者はこの始祖鳥の価値を正確に把握できなく、この記念すべき骨格標本はロンドンに持ちこまれたということらしい。


その後ドイツの地層より十数件の始祖鳥の化石が発見されているが、その価値に直ぐ気づき、多くはドイツ国内の博物館が所蔵されている。


その中で、1876年発見された「ドイツ標本」と言われるものは 標本の状態が良好なで、頭部もしっかりと残っているため、この標本のレプリカや写真はさまざまな場所で展示されている。


 にも入り口の奥にひっそりと展示されいた頭足類の化石。


このジュラ紀の”イカ”と思われる化石は軟体部まで残っており、触手やそこに並ぶかぎ状の突起のような(現在のイカは吸盤を持つ)繊細な構造まで残っている学術的に重要な化石と言われている。

 

更にピルトダウン人の頭骨復元まで展示されていた。


この化石は"ピルトダウン人事件という最悪の詐欺事件を起こした化石である。


この事件は、チャールズ・ドーソンという人が1912年にイングランド南部サセックスで"発見"したという人類の骨は50万年前のもので、既に見つかっていた人類の祖先とは違い、"脳が大き"く、ヒトとサルをつなぐミッシングリンクが見つかったのだと、学会は大騒ぎになった。


しかし、40年以上経過して、色々測定技術が進歩して再測定すると、頭部は現代人、顎部はオラウータンのものを組み合わせた全くの捏造ものと判明したのだ。


もう一つ、呪われたアメニストという大きな宝石が展示されていた。


所有者がこの宝石は”呪われている”と信じ、自らを守るために厳重に封印して運河に投棄したが、結局自分のところに戻ってきてしまい、大英自然史博物館に寄贈されたものである。


博物館に所蔵され”呪い”が解かれたかどうかは分からないが、仲々面白いものまで所蔵されているものだ。


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紹介したいものは山ほどあるが、字数の関係で次に行った美術館の紹介をします。


 

東京都美術館の「ブリューゲル「バベルの塔」展」


  ・入館料 1,000円 音声案内 520円 展示図録 2,500


東京都美術館は65歳以上はシニア料金で通常1,600円が1,000円に、それも東京在住者以外にも・・・さすが東京都 財政豊かで太っ腹だ。


 副題に「16世紀ネーデルランドの至宝・ボスを超えて」とあり、ブリューゲルのみならず、彼が手本とした先駆者ヒエロニムス・ボスの油彩2点、そして彼らが生きた時代、16世紀ネーデルラントの絵画、版画、彫刻を合わせて90もの作品で紹介するとあるが、やはり中心は目玉である「バベルの塔」においている。


今回混んでいて詳細に見ることが出来なかったが、本展は7/1810/15まで大阪の国立国際美術館で展示されるようのなので詳細はそこで見ることにし、ここでは目玉の「バベルの塔」を中心に触れてみる。

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旧約聖書「創世記」に神は自分の姿に似せて人間を造ったが、誘惑に負けたアダムとイブは楽園を追放され、地上に降りた後数を増やし、騒々しく、堕落し、神を敬うことしなかったので、神は怒り、「ノアの洪水」や火の雨を降らしソドムの町を焼き尽くしたが、人間は懲りず天にも届くバベルの塔を建設し始めたため、神の怒りをかい、建設を止めさせるため民族毎に言葉を分けてしまたという。


バベルの塔は魅力的な主題で多くの画家たちが描いている。

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 だが、ブリューゲルの「バベルの塔」に敵うものはない。


実はブリューゲルは生涯3枚の「バベルの塔」を描いている。


・一枚目:イタリア時代に描かれたもので現存しない
・二枚目:1563年ごろの作品でウィーン美術史美術館所蔵 (大バベルと呼ばれる)
・三枚目:1568年ごろの作品でボイマンス美術館所蔵 (小バベルと呼ばれる)


今回の展示は三枚目の小バベルと呼ばれるもので、ウィーンのものに比べてサイズが小さい(大バベル:114cm×155cm 小バベル:59.9cm×74.6cm)。

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二つの「バベルの塔」の違いは大バベルは大きな画面に雄大、大胆に描いているが小バベルは画面は小さいがそれを感じさせない壮大さと驚異の緻密さで細部まで描いている。


確かに今回の「バベルの塔」は画面上に描かれた人々の数は1,400人と言われ、細密なだけでなく、圧倒的なボリュームと迫真性を備えている。

 

頂上部のあたらしい、レンガは赤くするとか、窓の形を変え建築様式の変化表現、塔内部教会があり多くの人が集まっていたり、漆喰を運搬する人達は全身が真っ白に描き、何段にも資材を揚げる人力クレーンの構造を克明に描いているなど、又海と港には彼が詳しい色々な船を描き、塔周りは当時のネーデルラントの農村風景が詳しく描かれている。


上げたらキリがないほど小さな画面に建設の様子などが克明に描かれている。

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ブリューゲルの油彩画は世界的にも非常に貴重で真作は40点あまりしか残っておらず、板の上に500年前に描かれた油彩画はデリケートな保存を要するため海外の展示が最も難しい巨匠の一人と言われている。

 

おまけでこんな絵がありました。


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 {バベルの塔」ばかりになってしまったが、奇想天外な怪物たちが跋扈する世界を描いた奇才、ヒエロニムス・ボスの作品とその影響を受けたブリューゲルの版画記載しておきます。

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さて、次は「大エルミタージュ美術館展」だが、103日から神戸の兵庫県立美術館で展示されるので今回訪問する予定では無かったが、時間が余り、急遽行ったため閲覧時間も少なく、混んでいたためじっくり見ることもできず、今回は簡単に紹介します。


森アーツセンターギャラリーの「大エルミタージュ美術館展」

    (オールドマスター西洋絵画の巨匠たち)

  ・入館料 1,600円 音声案内 550円 展示品図録 2,500


エルミタージュ美術館 云わずと知れたかっての帝政ロシアの首都、サンクトペテルブルクにカテリーナ2世がベルリンの豪商から買い上げた225点の絵画を王宮内に飾ったのが始まりで、今では世界中の絵画や彫刻、文化遺産も集めて、およそ300万点。


展示室は400以上もある世界第三美術館の一つである。

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 今回は、17,000にも及ぶ絵画コレクションの中で、16世紀ルネッサンスから17,18世紀のバロック・ロココのオールドマスター、巨匠たちの名画85点が展示されている。


まず入り口を入ると、ドーンと220cmX151cmもの大作、エカテリーナ2世の肖像が出迎える。


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印象的だった作品を列挙すると

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接吻を盗まれた女性は抵抗らしい抵抗もせず、むしろ青年の方に身を寄せている。


彼女が気にしているのは、視線の先(画面右)の隣室にいる人々に気づかれないかということ。衣装の質感と女性の表情が素晴らしい。


私が最も気になったのは、大きな大作がズラッと並び混み合う中、38cm31cmと小さな絵のためか、皆素通りしてここだけがポコッと空いててじっくり見てしまった。

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 少女はなにを見つめているのだろうか、一途さと可憐さと清純さを見事に表現している。


又作者はすみれ色という色に少女の想いをかなり込めて描いたのではないだろうか?


古代ギリシャ人はスミレを愛し、蘇る大地のシンボルにしたように、ヨーロッパでは春の使者と扱われ、スミレにはつつましい可憐な少女のイメージを持つという。


まさに作者は可憐なスミレのイメージをこの少女の表情に写し込んだような気がする。


その他説明を省くが重厚な絵画が一杯だ。

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おまけで

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一泊二日で三つの美術館等を巡るハードスケジュールであったが、久しぶりにチョット知的感覚を刺激する事ができ何よりであった。10月には神戸の「大エルミタージュ美術館展」に行きもっとゆっくり詳しく見てこよう。


ダイビングの頻度を少し下げ、世界の美術館巡りをしてみたいが、一番の候補がエルミタージュ美術館だ。


早くあの「ヨルダン階段」を上って見たいものだ。




イメージ 1月1度の「キリスト教美術とギリシャ神話」の講義は今回もヘラクレスの12の功業に関するものだった。

前回はヘラクレスの12の功業の最初の「ネメアの獅子退治」(詳細は12月6日付けの私のブログを参照下さい)であったが、
今回は続きの第2話から6話までの5つの逸話についてであった。


簡単に今回の逸話の内容を紹介すると

「レルナのヒュドラ退治」

ヒュドラはレルナの沼沢地帯アミュモネの泉に住む水蛇で、
九つの頭を持ち、しかも真ん中の頭は不死で、残りの頭は首を切るとそこから二つの頭が生えてくる怪物だ。

ヘラクレスは従者だった甥っ子と松明で切り口を焼き、新しい首が生えてこないようにし、不死の首は岩でつぶして封印し、何とか退治した。


「ケリュネイアの鹿の生け捕り」

エウリュステウスの命令は黄金の角を持ち、女神アルテミスに捧げられていた鹿を生きて捕らえる事だった。

ヘラクレスは一年間も後を追って、隙をねらい、河を渡ろうとしている鹿に弓を放ち、前足2本の骨と腱の間を射抜き、一滴の血を流さず捕らえた。


「エリュマントスの猪の生け捕り」

付近を荒らしまわっている巨大で獰猛な猪の退治の話。

猪を茂みから追い出し、深い雪の中に追いやって、動けなくなった猪の背中に飛び乗って捕らえ、生きたまま肩に乗せミケーネに運んだ。


「アウゲイアスの牛小屋掃除」

エリスのアウゲイアス王は巨万の家畜を持っていたが、その家畜小屋には巨大な糞がうずたかくつもっており、これをたった一日で掃除せよという命令。

ヘラクレスは家畜小屋に沿って流れている河を利用し、その水を導入して一気にその糞を押し流してしまった。


「ステュンファロス湖畔の鳥退治」

ステュムパロス湖畔の森に住む、翼、爪、くちばしが青銅でできた怪鳥は凶暴で人間を襲い、排泄物で田畑を荒らす厄介者であり、
これを退治することを命令される。

ヘラクレスは女神アテナがヘパイストスに作ってもらった、鳴り物を吹き、飛び立ったところをヒュドラの毒矢で射殺した。


さて、前置きが長くなったが前述の各逸話にはそれぞれをテーマにした有名な絵画、彫刻があるが中でも印象深かったのが、
ヘラクレスのヒュドラ退治をテーマにした、

フランス象徴主義の巨匠
ギュスターヴ・モローを代表する作品『ヘラクレスとレルナのヒュドラ』(1876年シカゴ美術研究所)である。


本作ではキリストをヘラクレスに、ヒュドラを悪魔に置き換へ、悪魔に毅然と立ち向かうキリストを描いている。

画面左側では逞しい体と強固な意志を感じさせる視線を毅然とヒュドラに向けるヘラクレスを配している。

画面右側には九つの鎌首を持ち上げ、ヘラクレスに明らかな敵意を示すヒュドラが配されている。

そしてヒュドラの周辺には己が殺した死体が散乱しており、観る者へヒュドラの獰猛性と強大な力を連想させるが、
背後の岩の谷間から見える太陽はヘラクレス(キリスト)の勝利を暗示させている。


洋の東西を通じて蛇=竜を悪の化身とする話は多い。

日本の場合、神話のヤマタノオロチが多頭の蛇という共通点でヒュドラの話とよく似ており、
また、退治する方法がヒッタイトの神話に似ている。

ヒッタイト神話では、嵐の神「プルリヤシャ」が小屋に酒を瓶に入れて隠し、酒の匂いに誘われて来て、酔いつぶれた、竜の神「イルルヤンカシュ」を斬り殺す。

スサノオの「ヤマタノオロチ退治」の神話と同じである。

恐らく、ヒッタイトの神話が遠く巡り回って日本に伝播されたのであろう。

一方、ヒッタイトの龍退治神話はギリシア神話にもヘラクレスのヒュドラ退治として受け継がれた。


しかし、この蛇(竜)は足を持たない長い体や毒をもつこと、脱皮をすることから「死と再生」を連想させ、
山野に棲み、ネズミなどの害獣を獲物とし、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴でもあり、
古来より「神の使い」などとして世界的に信仰の対象でもあった。


だが、なぜか嫌われる。

先日の新聞記事
(2010年11月27日:読売新聞)

「人がヘビを怖がるのは本能」
とする研究結果を京都大学の教授らが発表した。

ヘビによる恐怖体験がない3歳児でも、大人と同じようにヘビに敏感に反応し(蛇の)攻撃姿勢を見分けられることを示したという。


毒を持つ異形な形をした生物を、我々の先祖のサルが木から下り2本足で歩き始めた時から警戒したのであろう。


翻って、現代の我々日本の国民に、悪い政治家を見極める本能が少しでも授かっていればもっといい国になるのだが・・・。

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10月より月一度の「キリスト教美術とギリシア神話」なる講義に参加しているが、前回のテーマは「ヘラクレスの選択」でしたが、今回は「ヘラクレスの獅子退治」でした。


ヘラクレスは大神ゼウスの不倫の子として生まれたが、
ゼウスの妻ヘラから疎まれ、色々な策謀にあうが、
ついには気を狂わされ我が子を惨殺すはめに落とし込まれる。

正気に戻ったヘラクレスは自分の行為におののき絶望するが、罪を償うためにアポローンの助言に従い12の功業を果たすことになる。

(詳しくは2010年10月25日の私のブログを参照ください)


この12の功業の最初の功業が「ネメアの獅子退治」である。


どんな話かチョット紹介すると

怪物テュフォンの子供に、巨大で皮膚は鉄よりもかたい獅子がおり、ネメアの森に住み、村人や旅人を襲っていた。

罪滅ぼしでティリュンスのエウルステウス王のもとに身を寄せていたヘラクレスに、王がこの怪物退治を命じる。

ヘラクレスはネメアの森に獅子を探しに行ったが、皆獅子に食べられてしまって、獅子のことを知る人に出会うことも出来ず、
20日以上もネメアの森をさ迷った後、ようやく人食い獅子に遭遇することが出来た。

ヘラクレスは獅子に向って矢を放ったが跳ね返ってしまい、剣も役に立たず、 棍棒で人食い獅子の頭を殴ったが、なんと棍棒は真っ二つに折れてしまった。

だが、さすがの獅子も堪らず2つ穴のある洞穴に逃げ込んだが、
ヘラクレスは片方の穴をふさぎ、もう一方の穴から入り無双の腕力で3日3晩獅子の首を絞めて窒息させた。

ヘラクレスはこの後この獅子の爪を使い、剣をも通さない毛皮をはいで肩にかけ、棍棒を作り直し一生肌身はなさず持ち歩いた。

ヘラクレスが獅子を退治してきたことを聞いたエウルステウス王は、ヘラクレスの恐ろしい力を知り、殺されてはたまらないと、鍛冶屋に命じて頑丈な青銅の壷を作りヘラクレスがやってくるとその中に逃げ込んだ。

ヘラクレスを憎むゼウスの妻ヘラは、よくぞヘラクレスを苦しめてくれたと、この獅子を星座にした。


以上がヘラクレスの12の功業の最初の話であるが、ヘラクレスを表した絵画、彫刻にはこの話の獅子の頭をかぶり棍棒を持つ姿が常套となった。

さて、この獅子退治をテーマにした絵画、彫刻は数多くあるが、圧巻は
ナポリ国立考古学博物館にあるイタリアの名門 ファルネーゼ家コレクションの「休息するヘラクレス」像だ。

これは古代ギリシャ・クラシクス時代リュシッポスの「ヘラクレス」を216年ローマ・グリュコンが模刻したもので、1546年ローマ・カラカラ浴場近くで発掘されたという。

獅子の皮を棍棒にかぶせ、それを支えとして、獅子の退治で疲れて休む、より人間的な神の姿を現している。

この像が以後のヘラクレスのイメージとなっているとの事。


この英雄のポーズを真似て肖像画を描かしたのがフランス・ルイ14世だ。

彼は、ブルボン朝最盛期の王で太陽王と呼ばれ、対外戦争を積極的に行い領土を拡張して権威を高め、絶対君主制を確立した。

ヴェルサイユ宮殿を建設するなど文化の興隆も見たが、治世後半はスペイン継承戦争などで苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥っている。


リゴーのルイ14世の肖像画は
聖別式の衣装に身を包み、王剣を脇に差し、手を王杖にかけており、背後の台には王冠が置かれている。
 
ヘラクレスの像のポーズに良く似ている。

先日も大塚国際美術館で見たこの絵は絶対君主による天下の栄華を彷彿とさせるが、彼の足が細く美しく、そして赤いハイヒールがすごく印象的であった。


ルイ14世はイタリアから持ち込まれたバレエに魅せられ、自らも主演した。
そのため、美しい脚線美を維持するため高いヒール靴を好んだ。

ハイヒールを履いている理由はこれだけでなく、どうやらフランス中世の社会習慣にもあるようだ。


当時パリの家にはトイレはなくおまるに用を足し、いっぱいになると、窓から「水に注意!」と叫んで、道に投げる。

道はとても臭く歩けたものでなく、傘やハイヒールが必需品となっていたらしい。

ルイ14世が宮殿をルーブルからヴェルサイユに移したのは、ルーブル宮殿が大小便まみれになって、住むことができなくなったためとされている。

しかし、ヴェルサイユに移っても、当時の貴族や貴婦人たちは便意を催せば所を選ばず、ウンコやオシッコをするのが習慣になっていたらしくハイヒールが手放せなかった。


一方同時代の日本の江戸では各戸にトイレをもち屋敷と屋敷の間に溝を設け集めていた。

これは、清潔好きというより人糞を肥料として用いるという、世界的に見るとごく稀な風習によるものらしい。

一枚の絵画を深く見つめると、その背景の歴史、風習まで見えてくるのも楽しみだ。

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来年3月まで、本四高速が音頭をとり瀬戸内海エリアにおける24もの美術館がネットワークを作り、
参観者を増やそうとする計画が実施中である。

この計画に乗っかり、なんとかこの期間中に、これらの美術館を訪問してみようと先月決めたのだが・・・。

先月は、高速道路、本四連絡橋の料金が安くなる週末を利用してやっと2回行くことができた。


第一回目は 四国鳴門の「大塚国際美術館」
第二回目が 倉敷の「大原美術館」「児島虎次郎記念館」「倉敷市立美術館」である。


まず始めに、大塚国際美術館であるが、
神戸の自宅から近く何度か近くを通ることがあったが、今回まで、
豪壮な門構えと大塚製薬の企業色がプンプンしているのではないかと敬遠していた。


訪問してみて驚かされた、システィーナ・ホール、スクロヴェーニ礼拝堂や、ポンペイの壁画、最後の晩餐、ゲルニカなど
1,000点を越す世界の有名作品が原寸で真近で見られるのだ。

ここのコンセプトは世界の名画を写真に撮り、
原寸大で陶器の板(陶板)に焼き付けて展示する「世界初の陶板名画美術館」である。

「陶板名画は約2000年以上にわたってそのままの色と姿で残るので、これからの文化財の記録保存のあり方に大いに貢献する」
とパンフレットに謳っている。


美術館は地下3階~地上2階まで5フロアーもあり、私立では国内最大の美術館建築。

地下3階(小高い丘の上に建てられているため)から長いエスカレーターを登りきったところにエントランスがあり、
着くなりいきなり目にするのがヴァティカンのシスティーナ礼拝堂が再現された大空間「システィーナ・ホール」である。

ここには、今まで写真や映画でしか見たことがない
ミケランジェロの壁画「最後の審判」と天井画「天地創造」が高さ15m位はあると思われる空間に実物大で再現されている。
こんな身近に、じっくり対面できるとは本当に感激です。

この美術館の展示作品を紹介しようとしたらきりがない、
何しろ世界25カ国以上の美術館の一度は写真などで見たことがあるような名品を複製といえ、実物大で展示されているのだから。


ひとつ挙げるとしたら、歴史好きの私としてはポンペイで発見された「アレキサンダー・モザイク」である。

これは紀元前333年にマケドニアのアレキサンダー大王が
ペルシャのアケメネス朝最後の王ダリウス3世を撃ち破ったイッススの戦いを描いたモザイク画で戦いの様子が兵士一人ひとり細かく描写されている。

歴史の教科書でよく見かける絵であるが、こんなところで実物大のものに対面できたことは本当に感激であった。


一度は訪れてみるべき美術館である。


次に訪問したのは大原美術館である。

ここは近代工業の黎明期を駆け抜けた大原孫三郎(1880~1943年)が築き上げた白壁や格子窓の屋敷や蔵が軒を並べる「美観地区」の中心部にある。
 
荘厳なギリシャ風建築の本館玄関を入ると迎えてくれるのが児島虎次郎作「和服を着たベルギーの少女」だ。
     
孫三郎の西洋美術品収集の命を受け留学した児島が、
フランスのサロン・ナショナルニ出品して入選した作品である。
西洋美術を収集し、日本文化との融合を図ろうとする意気込みを感じさせられる。

大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ「受胎告知」は、
パリの画廊で売りに出ているものを児島が偶然見出したが、
非常に高価ではあったため、大原に写真を送り、強く購入を勧め、購入されたという。

その他トゥールーズ=ロートレック「マルトX夫人の像」、ゴーギャン「かぐわしき大地」などの名品が児島によって購入され、日本に運ばれた。
     
1929年、児島が享年47歳で他界し、これを大いに悲しんだ大原は、
児島の功績を記念する意味をもって、その翌年に大原美術館を開館した。
     
日本初の西洋美術館であった大原美術館はニューヨーク近代美術館創立の翌年、
国立西洋美術館(東京)に30年近く先駆ける早さだった。

     

倉敷紡績2代目経営者の孫三郎は、繊維産業の隆盛を背景に美術館のほか、
近代的な病院や労働科学研究所など7つの研究所を開設している。


社会的良心と企業業績の拡大の両立を果たした、孫三郎の偉業や人となりは
城山三郎の「わしの眼には十年先が見える:大原孫三郎の生涯」に詳しく述べられている。

それによると
「余がこの資産を与へられたのは、予の為にあらず、世界の為である。余に与へられしにはあらず、世界に与へられたのである。 
余は其世界に与へられたか金を以て、神の御心に依り働くものである。」

どっかの国の私利私欲に汲々する強欲金融経営者に聞かせたいものだ。


「わしの眼には十年先が見える:大原孫三郎の生涯」
     城山三郎   新潮文庫刊 552円
「大塚国際美術館 100選」 2000円
「大原美術館名作選」  2000円

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