
チュークは、ミクロネシア連邦の4つの州のひとつで、カロリン諸島に位置し、グアムから約1時間半のフライトの距離にある。
そのチュークの環礁は直径がおよそ100kmもある世界最大級の円形環礁で、
広大な環礁の中は静かで、浅くきれいなミクロシアブルーの海を湛え、そして中央には、青い空に向かってそびえ、自然美に満ちあふれる島の山々が見える。
環礁を囲むバリアリーフには、椰子の木がある美しい砂地がところどころに散在している。
環礁内には大小合わせて100程の島々があるが、うち人が居住しているのは20ほどである。
本当に自然味あふれる南の天国のようなところだ。
“チューク”・・私ども年配者にとって、チュークというより“トラック諸島”といったほうがなじみがある。
トッラク諸島というと、そうです、南の天国のような島々のここも、太平洋戦争の激戦場だったのです。
まず、その歴史はやはり厳しい列国の支配統治の歴史であった。
1899年、スペインよりドイツの統治下となったが、1914年、日本海軍がマーシャル、カロラインおよびマリアナ諸島北部を軍事下に治め、1920年、国際連盟の委任による日本の統治が始まった。
先住民の人口は、当時40,000人ほどしかなかったのに対し、日本人の人口は、この時代の広範囲にわたる植民政策により、ミクロネシア全体で10万人を超えたという。
太平洋戦争終了の、1947年、国連はミクロネシアの6つの地域(ポンペイ(旧称ポナペ)、コスラエ(旧称クサイエ島)、チューク(旧称トラック)、ヤップ、パラオ、マーシャル諸島、マリアナ諸島北部)を米国の信託統治領とした。
1978年7月12日には、信託統治領下のトラック(現在のチューク)、ヤップ、ポナペ(現在のポンペイ)およびクサイエ島(現在のコスラエ)の4島が住民投票により、ミクロネシア連邦となることになって現在に至っている。
ところで、チューク環礁内に多くの沈船があるのは、
第二次世界大戦中、環礁の内側では、大日本帝国艦隊が四つに分散し駐留していたが、
1944年2月17日、18日の両日、チューク(旧トラック)諸島の環礁外に停泊した空母から飛び立った米機動部隊戦闘機によってチューク環礁内外に集結していた日本の艦艇や商船などおよそ80隻がつぎつぎと沈められた。
この戦闘で、日本人の犠牲者は15000人にものぼり、其の内の7000人はトラック北方から同島へ向かっていた輸送船団に乗船していた将兵が犠牲になった。
その時の艦船群が環礁内に、現在も、透明度の高い海と、環礁に守られて、原型をとどめて、数多く沈んでいます。
現在、それらの沈没船は海底博物館に指定され、州政府によって厳重に保護・管理されており、
チュークは、世界の沈船ダイビングのメッカとなった。
アメリカの「世界のダイビングスポット・ベスト10」にも選ばれ、今日では世界中から数多くのダイバーがここに集まってきます。
われわれ日本人から見るとなんとも皮肉のように思えるのだが、
見所はというと、資料によると
まず、沈船の最大級のものは全長163mの特殊潜水母艦「平安丸」で16~30mの深さで見ることができ、船首部のマスト先端が折れている以外は、ほぼ原形をとどめている。
また、チューク海底の沈船の中で最も美しい船の一つと言われている、特設給油艦「神国丸」も原形をとどめており、12~35mほどでみることができる。
船首の機関砲やむき出しになった船の支柱部分は、華やかなサンゴやヒドロポリプ、スポンジに覆われ、そこに何千もの魚が渦を巻いている。
また調理室では、今でも食器類や調理器具、大きな調理コンロが当時のままの姿で並んでいる。
さらに、映画「タイタニック」のロケにも使用された航空機運搬船「富士川丸」がチュークの沈船ダイビングを有名にしました。
この船も比較的よく原形をとどめており、一番の見どころは、色とりどりのスポンジやサンゴで覆われた船首に据付けられた銃です。
船首はウミトサカ・ヤギなどのソフトコーラルやイソギンチャクで覆われ、また船室には、水タンク、銃のための弾薬、プロペラ、エンジンカバーなど他の多くの航空機部品が残っている。
操舵室を備えた上部構造、浴室、大広間、調理室およびエンジンルームへは容易にアクセスできるので、気軽にレックダイビングが楽しめるとのこと。
そのほかに、ちょっと深度は深くなるが、ほとんど損害を受けていない「日豊丸」が原形をとどめ静かに沈んでおり、深い深度と相まって、きれいな写真が取れると人気のポイントとなっている。
透明度の高い海の中、原形をとどめた大きな船の内を探索し、当時の状況を窺い知ることが出来る、レックダイビングとあって、期待が大きく膨らみます。
それでは行ってきます。
写真は「富士川丸」エンジンルーム(インターネットより)