My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

2010年04月

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先日、仕事を休んで平日に、神戸市立博物館で開催中の<イタリアが愛した美の遺産>と銘打った「トリノ・エジプト展」へ行ってきました。

昨年の夏、紅海へダイビングに行った帰りにカイロのジプト博物館を見学したが、
世界のエジプト古代遺跡専門の博物館として双璧すると言われる「トリノ・エジプト博物館」がずぅーと気になっていて、今回やっと見ることが出来ました。

「トリノ・エジプト展」は<日本におけるイタリア2009・秋>の主軸として計画されたもので既に昨年8月から東京、仙台、福岡と開催されて、今年の3月より神戸で5月末まで開催されているのだ。

今回の「トリノ・エジプト展」はイタリア・トリノにあるトリノ・エジプト博物館が世界に誇る3万数千点ものコレクションのうち、120点が日本で初公開されている。


今回の展示のメインはイビの石製人型棺の蓋やセクメト女神像をはじめとする2メートル級の大型彫像、ミイラ、彩色木棺、パピルス文書などが出展されている。

トリノ・エジプト博物館では、美術監督としてアカデミー賞を2度も受賞したダンテ・フェレッティによる、
大型彫像ギャラリーを照明と鏡を駆使した印象的な空間に仕立てているが、そのドラマティックな演出が神戸の展示でも再現されている。


さて、本題の展示内容について触れると

展示室の入り口は明るいが中は真っ暗だ。
目が慣れてくるとスポットライトに照らされた巨大な像たちが暗闇の中でポツン、ポツンとくっきりと浮かび上がってくる。

各像の周りには大きな鏡が配置され、映し出された像の後姿を見ながらながめる像の姿は神秘性をさらに高めるにくい演出だ。


今回の展示のハイライトはやはり「アメン神とツタンカーメン王の像」だろう。
コレクションされてから今回初めて館外へ貸し出されるという貴重な像だ。

2mを越す白い石灰岩の像だが、左の座っている大きな像が、ツタンカーメン王が崇拝するアメン神で、王は、向かって右の小柄な立像である。
王の右手は、背後から敬服を表すようにアメン神の肩を抱いている。

ツタンカーメン王の父と考えられるアクエンアテンは、太陽神アテンを唯一神とする宗教改革を断行したが、失敗に終わった。

そのため、それに続く王達は伝統的な神々、とりわけテーベの主神であるアメン神に対して再び忠誠心を示す必要があったのだという。

見どころは尽きない。

「イビの石製人型棺の蓋」は変性硬砂岩という物で出来ているというが、金属のように黒光りした光沢があり、緻密なヒエログリフが全体に彫られている。

お棺の中から手を出して死者の体の護符であるジャド柱を握り締めている構造はなんともいえない。

私が好きなのは「ライオン頭のセクトメ女神像」だ。
セクトメは火を吐く戦闘的な、復讐の女神だが、像は滑らかな女性的な曲線で、陰影が強調され、より厳粛な雰囲気を醸し出している。
頭は人間とライオンの特徴を同時に見事に現している。


今回の日本での展示は120点。トリノ・エジプト博物館のコレクションは3万3千という。

昨年、芸術新潮の9月号「エジプト美術世界一周」でエジプト・コレクションを持つ世界各国の美術館の特集をしていたがそれによると

カイロ・エジプト博物館(180,000点)
ベルリン国立エジプト美術館(105,000点)
大英博物館(100,000点)
ルーブル美術館(60,000点)
メトロポリタン美術館(36,000点)

なぜ、かくも大量に、貴重な文化遺産が海外に流出してしまったのか?
いつもも感じていた疑問である。


大きくはナポレオンの時代に遡る。

1798年5月、ナポレオン軍はエジプトに遠征したが、このとき考古学者や歴史学者などを多数引きつれ、エジプトの遺跡調査を本格的に行った。

そして1799年にはかの有名な石の碑文「ロゼッタ・ストーン」もナイル河口の町ロゼッタで発見している。

国内事情によりナポレオンが帰国した後、戦局は悪化し、1801年にフランス軍は降伏する。

その際アレクサンドリア条約が締結され、フランスが発見した大半の考古学品が「ロゼッタ・ストーン」とともに英国に略奪されてしまった。

その後、各列強がエジプトの遺跡に強い関心を示し、当時のエジプトはオスマン・トルコ領で、太守ハマンド・アリが治めていた。

が、彼はよそ者としてエジプト古代遺跡には関心なく、発掘はパルタージュ(分有)方式で行われ、大量の文化遺産が海外に流失してしまった。



どこの世でも為政者がしっかりしないと文化遺産のみならず、国益まで失いかねない。

翻ってわが国は、“友愛”首相が選挙のためのばら撒き政策で国の借金を増やし、
国外政策では何も決められず、米国からはバカ扱い。中国からはカモ扱い。

何とかしないと国が危うくなる。

国民が選んだ党だが、次期選挙では賢い選択をしよう!!


参考図書
芸術新潮9月号  1400円
トリノ・エジプト博物館 朝日新聞社刊  2300円

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日ごろ母は「五黄の寅」生まれを自慢していた。

確かに、戦前、戦中、戦後と日本の波乱に満ちた激変の時代を気丈夫に生き抜き、3人の息子を育て上げた。

しかし、流石の「五黄の寅」も年には勝てず、昨年12月より体調を崩し、入院を余儀される状態であったが、
入院中は明るく振舞い院内の人気者で、症状も安定していた。

だが、4月10日の流動食の朝食をとった後、急にむせ、吐いてしまい、それが気管に入り呼吸困難になったようだ。

病院の近くに住む弟夫婦が医者に呼ばれ駆けつけた時は既に意識もなく、そのまま、まもなくして亡くなった。

入院したときから覚悟はしていたものの、突然な最後であった。


私は、母の状態が安定していたので、久しぶりのダイビングをタイで行うべく(前回のブログ参照)、
神戸から関西空港へ向けてタクシーに乗っているときに弟から母の容態が急変した連絡を受けた。

すべての旅程をキャンセルして東京に向かったが、着いたときには母は既に実家にもどっていて、一人静かに寝ていた。

死に顔は波乱の人生を生き抜いてきた割には本当に安らかできれいだった。

母は、晩年私達に、「自分の葬式は自分の力だけで出して、好きな花を一杯に飾って欲しい。

会葬頂く人からは一切香典や供花は頂かないように、そして会葬の御礼には昨年母が自主出版した本「無花果(いちじく)」を渡して欲しい」と強く願っていた。


母の葬儀は4月15日東京の小雨降る多磨霊園で行われた。

近親者のみが集まるこじんまりした葬儀であったが、故人の希望通り祭壇を色とりどりの季節の花で飾り、
お棺には花と好きな本をたくさん入れてあげ、皆で故人を偲ぶしっとりした葬儀であった。

母が昨年自主出版した「無花果」の見出しに

「小さな、小さな本が出来ました。 今年で私も九十五歳、振り返って何も残っていない寂しさを埋めるためにこの本を作りました。」
とある。

母の実家である村橋家のルーツと母の子供時代の思い出を綴ったものだ。

少し内容を紹介すると

母の祖父、次郎は京都でも五指に入る大きな葉茶屋を営む下村家の長男として生まれたが、
実母は早く亡くなり、継母に次男が生まれると折り合いがまずくなり、13歳にして家を出て一人で長崎に行った。

家を出て、実母の旧姓橋本と生家の下村から一字ずつとって村橋次郎と名乗るようになった。

村橋家の始まりだ。


長崎に着いて、なんだかんだがあったが、13歳で「舎密局」という蘭学の化学技術を学ぶ学校に入学させてもらったから驚きである。

この「舎密局」に慶応2年(1866年)オランダの外国人化学教師、ハラタマが来日して授業するようになって、
化学だけでなく、物理、地学、鉱物学、医学など広い分野に及び勉学に励んだ。

明治2年(1869年)明治政府において大阪に「舎密局」という理化学校を新設することになり、
ハラタマは大阪に移ることになり、村橋次郎も共に大阪に移り住んだ。

ここが日本の化学技術の発祥の地のようになり、多くの化学者を輩出している。

消化酵素タカジアスターゼを発見した高峰譲吉もその一人だという。


村橋次郎はその後、衛生試験所所長となると共に、化学機器の輸入会社「離合舎」を興した。

村橋次郎の息子素吉(母の父親)は京大卒業後、
鉄道省に入るが、鈴木商店の金子直吉の誘いで鈴木商店に移り、
台湾で楠を原料としたナフタリンの発明をし、大きく会社の業績を向上させたという。


このように母の父、祖父は化学という固い世界に身をおいていたが、母の兄妹達も化学系の大学教授や嫁ぎ先が大学教授だったりで、同じく固い世界に身をおいた。

しかし、母は子供のころから本を読むのが好きで、女学校時代には演劇に憧れ、
芝居にでたり、戯曲を書いたりしていたことがあり、
兄妹たちとは全く違った世界に身をおいた。


父親の田中家は軍人の家系で、父の弟は軍人となったが、
父は映画や演劇の仕事に憧れ、映画関係の仕事するうち、母親と会い結婚することになり東京に移った。


私が子供のころ家に作家の卵や、演劇に関係する若い人たちが色々集まって、ワイワイガヤガヤと夜遅くまで喋っているのを、
大人の仲間入りして、傍でじっと聞いているのが好きだった。

私の夜更かしの癖はこのころついたのかもしれない。


しかし、両親は私達がまだ子供のころ離婚し、それ以降、
母親は今日まで女手ひとつで私達を育ててくれた(父からの仕送りはあったが)。


旧姓の村橋に戻り、子育てをしながら、仕事をし、
コツコツと趣味の戯曲などを書くなど活動的な生活をし、
後半は読書と庭いじりに精を出した。

私の兄弟は父の影響か映画関係の仕事を、私は村橋の影響かエンジニアリングの固い仕事を選んだ。

だが、兄弟3人は読む分野は違うが読書が好きだ。

母親が残してくれたいい趣味で本当に感謝している。


母は波乱の人生を生き抜き、やはり死ぬまで「五黄の寅」だったのかもしれない。


有難うお母さん。 安らかに。

合掌。

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昨年11月にパラオに行ってから今回まで4ヶ月以上ダイビングに行ってないことになる。

今ままでは、ダイビングに出発する時は次の予定が決まっていたことが殆どで、こんな間が開くことはなかった。

東京の実家の母親が12月に入院して、高齢であるから色々心配して遠出も難かったこともあるが、
今年の冬の寒さが厳しく、年とともに寒さがこたえたのか、
ダイビングの計画をすることが急に萎えてしまったことが大きい。

季節も春めいて、母親はまだ入院中だが、無性に行きたくなり、
家内の法事が済んだ翌週をターゲットに急遽計画することにした。


タイに決めた根拠はさしたるものはなく、ただ、ダイビングの間にのんびりと白い浜辺に寝そべりユッタリ出来る所をと考えていたが、

2月甥っ子の結婚式で久しぶりにタイに行った時、インフラが整っていて、皆明るく親切で、物価が安いと印象が良かったのと、
勿論タイでははじめてのダイビングであることで決めた。

タイでのダイビングでは、サムイ・タオ島ということになるが、
大変ポピュラーな所なので、少しでもユッタリ出来るように、
全泊タオ島ステイでプライベートビーチを持ったリゾートホテルに狙いを定めて旅行会社と相談したのだが・・・・。

なんと間が悪いことに、今度の旅行期間がタイの旧正月:ソンクラーンにぶつかってしまっていたのだ。

母親の様態によっては、急遽中止する自体も考えあわせて、
予約の確定をぎりぎりまで延ばしていたため、殆どのホテルは満室で、やっとダイバー向けのホテルが予約でき、
当初の希望とチョット変わってしまったがやれやれである。

さて、このソンクラーンであるが、タイに詳しい甥っ子などに聞くと、旅行者にとってもなかなか受難の"祭り“のようで覚悟を持って出向かなければならないようだ。

ソンクラーン とはタイの旧正月のことであり、タイにおける旧暦の新年であった。

現在、政府によって4月13日から15日に固定されており、タイの祝日になっている。

基本的には、仏像などに水をかけてお清めをしたり、家族の年長者の手に水をかけお清めをし、相手に敬意を示す行いであったが、
近年では、ソンクラーンが一年でもっとも暑い時期に行われることなどから、特に若年層を中心に、単なる水掛け祭りに変質している。

この祭りでは、水を掛けること自体が「敬意を払う」行為とみなされ、無礼講となり、見ず知らずの相手にさえ水を掛け合うという。

インターネットなどの写真を見ると、ピックアップトラックの荷台に大きな水タンクを積み、走りながら街行く歩行者に水を撒き散らす様子や、はたまた消防ホースで水をかける写真まであった。


ここまで行くと本当に受難だ。

最近の旅行者は“3種の電子神器” (デジカメ、携帯、パソコン)を常に携帯している。

これらが水につかり使用不可になったら、国内との連絡も取れず、スケジュールの確認さえままならなくなる大惨事だ。

旅行者たるもの“3種の電子神器” の紛失防止と共に防水対策を怠るなということか。

この水掛祭り、聞くところによると、チェンマイがもっとも激しいとの事。

私が今回行くタオ島はどうなんだろうか? 何かワクワクする気もするが。
カメラは既に防水だが、携帯をしっかりビニールに包んで街を回ってみよう。


さて、久しぶりのダイビングに行く今回場所は、タイ湾の南部 サムイ・タオ島だ。

タイ湾は、マレー半島とインドシナ半島に囲まれた閉鎖的な海で、湾内の水深は平均45m、最大でも80mと非常に浅い海である。

このためか、外洋から海流が流れ込みにくく、日周潮汐という潮の干満が1日に1回しかないという珍しい特徴を持ち、水流はとても穏やかであるという。

流れが穏やかで、チャオプラヤー河・メコン河等の大河からの淡水の流入による豊富な栄養分により魚影がとても濃く、
さらに南シナ海から流れてくる塩水により、場所や季節、水深による塩分濃度の違いを生じさせ、他の海とは一風変わった特殊な生態系を育んでいる。

こうゆう海域では環境にマッチした生物が極端に増え、固体も大きく、
また、これらの数が多い生物はあまり外敵を怖がらなくなる傾向もある。

例えばセンジュイソギンチャクに夥しい数のハナビラクマノミが共生していたり、砂地で見られる人気の共生ハゼ類も、非常に数が多く、固体も大きい。

普段ハゼ類は警戒心が強く、ダイバーが近づくとすぐ巣穴に潜ってしまうが、ここでは我々が寄ってもあまり逃げずに、ゆっくりフィッシュウォッチングを楽しませてくれる。

また、ギンガメアジやバラクーダなどの群れ、時にはジンベエザメなどの大物も現れるという外洋的な性格もあわせ持っており、
マクロ派にもワイド派にも非常に面白い海であるという。


なんだか今回も面白くなりそうだ。
灼熱の空の下、ソンクラークを楽しみながらじっくりとカメラの腕でも磨いてみよう。

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