My Fortnight's Dairy

ようこそ私の日記に。ダイビングや旅行を中心に思いついた事柄をつれづれに書き綴ります

カテゴリ: 歴史

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国立科学博物館で開催中の「インカ帝国展―マチュピチュ発見 100年」が3月10日から開催されており、いつか行こうと気にしていたが、開催日が6月24日までということ、たまたま東京に住む弟夫妻との相談事もあり、やっと重い腰を上げる気になったのだ。

しかし、どうせ行くならばと、「インカ帝国展」以外にもこの国立科学博物館の常設展示の中に恐竜好きの私には絶対見逃せない恐竜の全身骨格が二体あり、これらも見学しようと過大な計画を立ててしまったのだ。


朝、5時過ぎに起き、神戸空港より7:10発のスカイマークに乗り羽田に8:30頃着き、上野の博物館には9時半ごろから3時半頃まで見学し、弟夫妻との会食は上野精養軒で4時からと約束し、そのあと羽田発20:15のスカイマークで神戸に帰り、帰宅は夜の10時を過ぎるというハードスケジュールだ。


年寄りにはかなりきつい工程だが、この切掛けは一年ほど前から購入している朝日新聞出版の「週刊 一度は行きたい 世界の博物館」だ。

世界の博物館の中から50の博物館を選び、毎週一つづつその博物館の特徴、展示されている至宝のトピックス、見所などが大きな写真と共に紹介されている。


38巻目(2012年5月発刊)に国立科学博物館が紹介されており、
その中にティラノサウルスと並んで最も有名な恐竜であるトリケラトプス(白亜紀後期、北米に生息していた最大級の角竜)が世界一の完全度誇る化石の姿のままで展示されているのだ。


通常、恐竜の化石はバラバラで発見されることが多いが、
ここのトリケラトプスは尻尾以外、奇跡的にほぼ全身がつながった状態で発見され、
その情報を保存する意味もあって、発見当時のままの姿で展示されている。

もう一体は日本近海に生息していた首長竜で、
当時高校生であった鈴木直氏が化石を発見したもので
2006年に新属新種として記載された全長7mにも及ぶフタバスズキリュウの全身骨格の雄姿が部屋一杯に展示されているのだ。


前置きが長くなってしまったが、本題のインカ帝国展の話に戻ると、平日であり、
開門すぐに入ったせいか比較的空いており、各展示物を真近に音声ガイドを聞きながらゆっくりと見学できた。


インカ帝国は本当に不思議な文明だ。

そもそもインカはアンデスでは少数の部族であったが、
15世紀前半~16世紀前半の僅か100年程の短期間に現在のペルーからチリにまで至る大帝国を築きあげてしまった。

彼らは車輪も文字も鉄器も持たずに、何故、多数の巨大建築物を擁する大文明を築き挙げたのか、又、高度の文明を持ちながら、一握りのスペイン人の侵略の前にあっけなく敗北してしまったのか。


今回の展示は「空中都市マチュピチュ発見100年」を記念して
インカ文明に対し最新の発掘調査はもとより、人類学、歴史学の視点を交え、その文化と歴史を多角的に紹介しようとするものである。



薄暗い展示室の冒頭はインカの繊細な技巧と独特な色彩の考古遺物が並んでいる。

2頭のジャガーに支えられた王の玉座をはじめ、
トウモロコシ酒を入れていたというアリバロの堂々たる姿に驚き、
生贄の儀式での供物の一つであったというハンダ付けの赤と黄色の鮮やかな羽根が印象的な小型人物像など胸を躍らされる。


又、広大な帝国を維持するシステムとして全長4万kmにも及ぶインカ道を構築し、
一定の間隔でチャスキ(飛脚)を配置して、
キープと呼ばれる縄と結び目による記録装置によるメッセージを帝国のあらゆる所に運んでいたと言う。


さらに、5体のミイラが展示されているが、これらはインカによって支配されたチャチャポヤ族のミイラですが、インカの支配になってからつくられるようになった。

つまりインカの強大な力は他の部族の埋葬の文化にまで大きな影響を与えていたということである。


さらに、インカ帝国は1533年、最後の王アタワルパが処刑されたことにより終焉を迎えるが、その後も抵抗を続けながらも、スペインの同化政策を受け、生活や文化の在り方を変化させていったが、
インカ人の中には、自身こそが帝国の末裔と称し、古いインカの服装を纏った多くの肖像画が描かれている。


最後は3Dシアターです。実際に現地で映したものと、バーチャル画像の組み合わせで、マチュピチュを空から堪能出来る。
浮遊感もあり素晴らしい出来栄えでした。


常設展示の世界館、日本館は空いておりじっくり見ることが出来、
特に目的であったトリケラトプスとフタバスズキリュウは大きく、雄大で見事なものでした。


この日本の総合科学博物館を見学して、多くの中学生達が校外授業の一環か、
係員の説明を熱心にメモしながら見学している姿や、
子供ずれの母が子供に、これなんと言う名の恐竜と聞くと、子供が得意げに名前を告げ、母親に色々説明している姿などは微笑ましいと感じると共に、理科離れが指摘されて久しい日本だが、まだまだ大丈夫と言う気になった一日でもあった。

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昨日、急遽神戸・三宮の神戸市立博物館で開催中の「古代ギリシャ展」に行ってきました。

神戸の在住者としてはいつでも行けると安心していたが、6月12日までと言うことに気が付き急遽行くことにしたわけです。

が、平日にもかかわらず私のような人が多いのか、かなり混んでいて自分のペースで見て行けず少し残念でした。


今回の展示は大英博物館のギリシャ・ローマコレクションから、人間の身体こそが、美の極致―古代ギリシャの人々がたどり着いた理想の「美」であると言うことをテーマに厳選された彫像、レリーフ、壺絵など135点が展示されている。


やはり圧巻は、日本初公開となるギリシャ黄金時代の傑作「円盤投げ(ディスコボロス)」である。

この彫像は高さ170cmもあり、配色を黒一色とした大きな部屋の中央部に配置され、360度どの角度からもじっくりと鑑賞できるようになっている。

円盤を放り投げる直前の若々しく、鍛えられた肉体像はまさにギリシャ人が理想とする身体像を表現したものである。

この彫像は紀元前5世紀半ばにギリシャの彫刻家ミュロンが作ったブロンズ像を手本に制作された、ローマ時代(後2世紀)のコピーであるが、オリジナルのブロンズ像は現存しない。


「征服されたギリシャはその野蛮な征服者をとりこにした・・」と言われるほどローマ人はギリシャの美術に魅せられ、
裕福な人はオリジナルを買い求め、手に入らなければ古いギリシャの作品のコピーを注文しコレクションとしたという。

「円盤投げ」を含め、今回の展示されている彫像の多くはローマ時代にコピーされたものである。

どうやらローマは政治的には優れていたが、美術的にはギリシャの模倣で終わってしまったようだ。


さて、他にも色々目に付いたものがある。

昨年より「キリスト教美術としてのギリシャ神話画」と言う、月一度の美術講座を受講しているがその中で大きなテーマで、私のブログでも触れたことがある
「ヘラクレスの12功業」を描いた多くのアンフォラ(壷)が展示されていたことだ。


その中の、ヘラクレスの第一の功業である「ネメアのライオン退治」を表現した壷絵では、ヘラクレスがライオンを組み伏せ首を押さえつける様相。
彼に付き従う甥のイオラオス(左)がヘラクレスの手慣れた武器である棍棒を持ち、弓矢と靫はヘラクレスの背後に吊されている。
傍らではヘラクレスの守護女神アテナがこの戦いの様子を見つめている。

このような戦いの様子が前520-510頃の作成と言われるアンフォラに、黒像式で一本一本の細かい線までが克明に描かれているのには驚きであった。


他にも目に付いたのは、余り見学者も居らずじっくり見ることが出来たのだが、
「警告の碑文入り墓標」と言う高さ43cm足らずの小さな墓標である。

この展示品の説明文には

「この墓標は、道行く人に、朽ち果てた死骸を目にして、これが美しい若者ヒュラスの遺骸なのか、あるいは醜く粗暴なことで有名なホメロスのイリアスの登場人物テルシテスなのか誰もわかるまいと問いかけているのだ」
とある。

これはギリシャの芸術や思想に共通する、人はみな死ねば同類という感傷をあらわしたものである。


この墓標を見て、前述の美術講座で同じく紹介された
「われもまたアルカディアにあり」というニコラ・プッサンの絵を思い出した。

これはギリシャでは人類は黄金、銀、銅、英雄、鉄の5つの時代があったとされ、
その初期の黄金時代は、人間は土地から生まれ、神々と人間は一緒に暮らし、動物とも争わず、自然が必要なものを与えてくれ、世の中平和と正義に満ちていた。

その理想郷はアルカディア(ペロポネソス半島中央部)にあるとされた。

しかし、この黄金時代はパンドラの壷が開けられゼウスの支配となり終わってしまい、アルカディアの人々も死に絶えてしまう。

この理想郷と人間の生命のはかなさを重ね合わせるような作品が「われもまたアルカディアにあり・・(Et in Arcadia ego...)」で、
これは、ラテン語で、
「われ(死、死者)もまたアルカイディアにあり」と言う意味とのこと。

要は理想郷においても「死」はあり、人は死んでしまえば皆同類という「警告の・・墓標」と同じ古代ギリシャの感傷を表したものだ。


現在の世界の文明の礎を創ったギリシャ、エジプトであるが、昨今の経済低迷で傷んでいる。

これは他人事ではない。

政治がしっかりしなければならない。

日本の政治家はおかしい、この非常時においても、国民を見ず、他人の足を引っ張ることしか念頭に無い。

情けない。

イメージ 1月1度の「キリスト教美術とギリシャ神話」の講義は今回もヘラクレスの12の功業に関するものだった。

前回はヘラクレスの12の功業の最初の「ネメアの獅子退治」(詳細は12月6日付けの私のブログを参照下さい)であったが、
今回は続きの第2話から6話までの5つの逸話についてであった。


簡単に今回の逸話の内容を紹介すると

「レルナのヒュドラ退治」

ヒュドラはレルナの沼沢地帯アミュモネの泉に住む水蛇で、
九つの頭を持ち、しかも真ん中の頭は不死で、残りの頭は首を切るとそこから二つの頭が生えてくる怪物だ。

ヘラクレスは従者だった甥っ子と松明で切り口を焼き、新しい首が生えてこないようにし、不死の首は岩でつぶして封印し、何とか退治した。


「ケリュネイアの鹿の生け捕り」

エウリュステウスの命令は黄金の角を持ち、女神アルテミスに捧げられていた鹿を生きて捕らえる事だった。

ヘラクレスは一年間も後を追って、隙をねらい、河を渡ろうとしている鹿に弓を放ち、前足2本の骨と腱の間を射抜き、一滴の血を流さず捕らえた。


「エリュマントスの猪の生け捕り」

付近を荒らしまわっている巨大で獰猛な猪の退治の話。

猪を茂みから追い出し、深い雪の中に追いやって、動けなくなった猪の背中に飛び乗って捕らえ、生きたまま肩に乗せミケーネに運んだ。


「アウゲイアスの牛小屋掃除」

エリスのアウゲイアス王は巨万の家畜を持っていたが、その家畜小屋には巨大な糞がうずたかくつもっており、これをたった一日で掃除せよという命令。

ヘラクレスは家畜小屋に沿って流れている河を利用し、その水を導入して一気にその糞を押し流してしまった。


「ステュンファロス湖畔の鳥退治」

ステュムパロス湖畔の森に住む、翼、爪、くちばしが青銅でできた怪鳥は凶暴で人間を襲い、排泄物で田畑を荒らす厄介者であり、
これを退治することを命令される。

ヘラクレスは女神アテナがヘパイストスに作ってもらった、鳴り物を吹き、飛び立ったところをヒュドラの毒矢で射殺した。


さて、前置きが長くなったが前述の各逸話にはそれぞれをテーマにした有名な絵画、彫刻があるが中でも印象深かったのが、
ヘラクレスのヒュドラ退治をテーマにした、

フランス象徴主義の巨匠
ギュスターヴ・モローを代表する作品『ヘラクレスとレルナのヒュドラ』(1876年シカゴ美術研究所)である。


本作ではキリストをヘラクレスに、ヒュドラを悪魔に置き換へ、悪魔に毅然と立ち向かうキリストを描いている。

画面左側では逞しい体と強固な意志を感じさせる視線を毅然とヒュドラに向けるヘラクレスを配している。

画面右側には九つの鎌首を持ち上げ、ヘラクレスに明らかな敵意を示すヒュドラが配されている。

そしてヒュドラの周辺には己が殺した死体が散乱しており、観る者へヒュドラの獰猛性と強大な力を連想させるが、
背後の岩の谷間から見える太陽はヘラクレス(キリスト)の勝利を暗示させている。


洋の東西を通じて蛇=竜を悪の化身とする話は多い。

日本の場合、神話のヤマタノオロチが多頭の蛇という共通点でヒュドラの話とよく似ており、
また、退治する方法がヒッタイトの神話に似ている。

ヒッタイト神話では、嵐の神「プルリヤシャ」が小屋に酒を瓶に入れて隠し、酒の匂いに誘われて来て、酔いつぶれた、竜の神「イルルヤンカシュ」を斬り殺す。

スサノオの「ヤマタノオロチ退治」の神話と同じである。

恐らく、ヒッタイトの神話が遠く巡り回って日本に伝播されたのであろう。

一方、ヒッタイトの龍退治神話はギリシア神話にもヘラクレスのヒュドラ退治として受け継がれた。


しかし、この蛇(竜)は足を持たない長い体や毒をもつこと、脱皮をすることから「死と再生」を連想させ、
山野に棲み、ネズミなどの害獣を獲物とし、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴でもあり、
古来より「神の使い」などとして世界的に信仰の対象でもあった。


だが、なぜか嫌われる。

先日の新聞記事
(2010年11月27日:読売新聞)

「人がヘビを怖がるのは本能」
とする研究結果を京都大学の教授らが発表した。

ヘビによる恐怖体験がない3歳児でも、大人と同じようにヘビに敏感に反応し(蛇の)攻撃姿勢を見分けられることを示したという。


毒を持つ異形な形をした生物を、我々の先祖のサルが木から下り2本足で歩き始めた時から警戒したのであろう。


翻って、現代の我々日本の国民に、悪い政治家を見極める本能が少しでも授かっていればもっといい国になるのだが・・・。

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10月より月一度の「キリスト教美術とギリシア神話」なる講義に参加しているが、前回のテーマは「ヘラクレスの選択」でしたが、今回は「ヘラクレスの獅子退治」でした。


ヘラクレスは大神ゼウスの不倫の子として生まれたが、
ゼウスの妻ヘラから疎まれ、色々な策謀にあうが、
ついには気を狂わされ我が子を惨殺すはめに落とし込まれる。

正気に戻ったヘラクレスは自分の行為におののき絶望するが、罪を償うためにアポローンの助言に従い12の功業を果たすことになる。

(詳しくは2010年10月25日の私のブログを参照ください)


この12の功業の最初の功業が「ネメアの獅子退治」である。


どんな話かチョット紹介すると

怪物テュフォンの子供に、巨大で皮膚は鉄よりもかたい獅子がおり、ネメアの森に住み、村人や旅人を襲っていた。

罪滅ぼしでティリュンスのエウルステウス王のもとに身を寄せていたヘラクレスに、王がこの怪物退治を命じる。

ヘラクレスはネメアの森に獅子を探しに行ったが、皆獅子に食べられてしまって、獅子のことを知る人に出会うことも出来ず、
20日以上もネメアの森をさ迷った後、ようやく人食い獅子に遭遇することが出来た。

ヘラクレスは獅子に向って矢を放ったが跳ね返ってしまい、剣も役に立たず、 棍棒で人食い獅子の頭を殴ったが、なんと棍棒は真っ二つに折れてしまった。

だが、さすがの獅子も堪らず2つ穴のある洞穴に逃げ込んだが、
ヘラクレスは片方の穴をふさぎ、もう一方の穴から入り無双の腕力で3日3晩獅子の首を絞めて窒息させた。

ヘラクレスはこの後この獅子の爪を使い、剣をも通さない毛皮をはいで肩にかけ、棍棒を作り直し一生肌身はなさず持ち歩いた。

ヘラクレスが獅子を退治してきたことを聞いたエウルステウス王は、ヘラクレスの恐ろしい力を知り、殺されてはたまらないと、鍛冶屋に命じて頑丈な青銅の壷を作りヘラクレスがやってくるとその中に逃げ込んだ。

ヘラクレスを憎むゼウスの妻ヘラは、よくぞヘラクレスを苦しめてくれたと、この獅子を星座にした。


以上がヘラクレスの12の功業の最初の話であるが、ヘラクレスを表した絵画、彫刻にはこの話の獅子の頭をかぶり棍棒を持つ姿が常套となった。

さて、この獅子退治をテーマにした絵画、彫刻は数多くあるが、圧巻は
ナポリ国立考古学博物館にあるイタリアの名門 ファルネーゼ家コレクションの「休息するヘラクレス」像だ。

これは古代ギリシャ・クラシクス時代リュシッポスの「ヘラクレス」を216年ローマ・グリュコンが模刻したもので、1546年ローマ・カラカラ浴場近くで発掘されたという。

獅子の皮を棍棒にかぶせ、それを支えとして、獅子の退治で疲れて休む、より人間的な神の姿を現している。

この像が以後のヘラクレスのイメージとなっているとの事。


この英雄のポーズを真似て肖像画を描かしたのがフランス・ルイ14世だ。

彼は、ブルボン朝最盛期の王で太陽王と呼ばれ、対外戦争を積極的に行い領土を拡張して権威を高め、絶対君主制を確立した。

ヴェルサイユ宮殿を建設するなど文化の興隆も見たが、治世後半はスペイン継承戦争などで苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥っている。


リゴーのルイ14世の肖像画は
聖別式の衣装に身を包み、王剣を脇に差し、手を王杖にかけており、背後の台には王冠が置かれている。
 
ヘラクレスの像のポーズに良く似ている。

先日も大塚国際美術館で見たこの絵は絶対君主による天下の栄華を彷彿とさせるが、彼の足が細く美しく、そして赤いハイヒールがすごく印象的であった。


ルイ14世はイタリアから持ち込まれたバレエに魅せられ、自らも主演した。
そのため、美しい脚線美を維持するため高いヒール靴を好んだ。

ハイヒールを履いている理由はこれだけでなく、どうやらフランス中世の社会習慣にもあるようだ。


当時パリの家にはトイレはなくおまるに用を足し、いっぱいになると、窓から「水に注意!」と叫んで、道に投げる。

道はとても臭く歩けたものでなく、傘やハイヒールが必需品となっていたらしい。

ルイ14世が宮殿をルーブルからヴェルサイユに移したのは、ルーブル宮殿が大小便まみれになって、住むことができなくなったためとされている。

しかし、ヴェルサイユに移っても、当時の貴族や貴婦人たちは便意を催せば所を選ばず、ウンコやオシッコをするのが習慣になっていたらしくハイヒールが手放せなかった。


一方同時代の日本の江戸では各戸にトイレをもち屋敷と屋敷の間に溝を設け集めていた。

これは、清潔好きというより人糞を肥料として用いるという、世界的に見るとごく稀な風習によるものらしい。

一枚の絵画を深く見つめると、その背景の歴史、風習まで見えてくるのも楽しみだ。

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来年3月まで、本四高速が音頭をとり瀬戸内海エリアにおける24もの美術館がネットワークを作り、
参観者を増やそうとする計画が実施中である。

この計画に乗っかり、なんとかこの期間中に、これらの美術館を訪問してみようと先月決めたのだが・・・。

先月は、高速道路、本四連絡橋の料金が安くなる週末を利用してやっと2回行くことができた。


第一回目は 四国鳴門の「大塚国際美術館」
第二回目が 倉敷の「大原美術館」「児島虎次郎記念館」「倉敷市立美術館」である。


まず始めに、大塚国際美術館であるが、
神戸の自宅から近く何度か近くを通ることがあったが、今回まで、
豪壮な門構えと大塚製薬の企業色がプンプンしているのではないかと敬遠していた。


訪問してみて驚かされた、システィーナ・ホール、スクロヴェーニ礼拝堂や、ポンペイの壁画、最後の晩餐、ゲルニカなど
1,000点を越す世界の有名作品が原寸で真近で見られるのだ。

ここのコンセプトは世界の名画を写真に撮り、
原寸大で陶器の板(陶板)に焼き付けて展示する「世界初の陶板名画美術館」である。

「陶板名画は約2000年以上にわたってそのままの色と姿で残るので、これからの文化財の記録保存のあり方に大いに貢献する」
とパンフレットに謳っている。


美術館は地下3階~地上2階まで5フロアーもあり、私立では国内最大の美術館建築。

地下3階(小高い丘の上に建てられているため)から長いエスカレーターを登りきったところにエントランスがあり、
着くなりいきなり目にするのがヴァティカンのシスティーナ礼拝堂が再現された大空間「システィーナ・ホール」である。

ここには、今まで写真や映画でしか見たことがない
ミケランジェロの壁画「最後の審判」と天井画「天地創造」が高さ15m位はあると思われる空間に実物大で再現されている。
こんな身近に、じっくり対面できるとは本当に感激です。

この美術館の展示作品を紹介しようとしたらきりがない、
何しろ世界25カ国以上の美術館の一度は写真などで見たことがあるような名品を複製といえ、実物大で展示されているのだから。


ひとつ挙げるとしたら、歴史好きの私としてはポンペイで発見された「アレキサンダー・モザイク」である。

これは紀元前333年にマケドニアのアレキサンダー大王が
ペルシャのアケメネス朝最後の王ダリウス3世を撃ち破ったイッススの戦いを描いたモザイク画で戦いの様子が兵士一人ひとり細かく描写されている。

歴史の教科書でよく見かける絵であるが、こんなところで実物大のものに対面できたことは本当に感激であった。


一度は訪れてみるべき美術館である。


次に訪問したのは大原美術館である。

ここは近代工業の黎明期を駆け抜けた大原孫三郎(1880~1943年)が築き上げた白壁や格子窓の屋敷や蔵が軒を並べる「美観地区」の中心部にある。
 
荘厳なギリシャ風建築の本館玄関を入ると迎えてくれるのが児島虎次郎作「和服を着たベルギーの少女」だ。
     
孫三郎の西洋美術品収集の命を受け留学した児島が、
フランスのサロン・ナショナルニ出品して入選した作品である。
西洋美術を収集し、日本文化との融合を図ろうとする意気込みを感じさせられる。

大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ「受胎告知」は、
パリの画廊で売りに出ているものを児島が偶然見出したが、
非常に高価ではあったため、大原に写真を送り、強く購入を勧め、購入されたという。

その他トゥールーズ=ロートレック「マルトX夫人の像」、ゴーギャン「かぐわしき大地」などの名品が児島によって購入され、日本に運ばれた。
     
1929年、児島が享年47歳で他界し、これを大いに悲しんだ大原は、
児島の功績を記念する意味をもって、その翌年に大原美術館を開館した。
     
日本初の西洋美術館であった大原美術館はニューヨーク近代美術館創立の翌年、
国立西洋美術館(東京)に30年近く先駆ける早さだった。

     

倉敷紡績2代目経営者の孫三郎は、繊維産業の隆盛を背景に美術館のほか、
近代的な病院や労働科学研究所など7つの研究所を開設している。


社会的良心と企業業績の拡大の両立を果たした、孫三郎の偉業や人となりは
城山三郎の「わしの眼には十年先が見える:大原孫三郎の生涯」に詳しく述べられている。

それによると
「余がこの資産を与へられたのは、予の為にあらず、世界の為である。余に与へられしにはあらず、世界に与へられたのである。 
余は其世界に与へられたか金を以て、神の御心に依り働くものである。」

どっかの国の私利私欲に汲々する強欲金融経営者に聞かせたいものだ。


「わしの眼には十年先が見える:大原孫三郎の生涯」
     城山三郎   新潮文庫刊 552円
「大塚国際美術館 100選」 2000円
「大原美術館名作選」  2000円

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